18 1月 2026, 日

著名人の「声」すら模倣される時代――生成AIによるディープフェイクのリスクと日本企業に求められるガバナンス

米国の著名経済学者が自身の声をAIに模倣された経験を公表し、波紋を呼んでいます。生成AIによる音声クローニング技術の急速な進化は、エンターテインメントの枠を超え、企業のセキュリティやブランド管理における新たな脅威となりつつあります。本稿では、最新の事例をもとに、日本企業が直面する「なりすまし」リスクと、講じるべき実務的な対策について解説します。

「本人の知らない発言」が拡散するリスク

米ウォール・ストリート・ジャーナルのオピニオン記事において、著名な経済学者であるトーマス・ソーウェル氏が、自身の声がAIによって模倣され、実際には発言していない内容がインターネット上で拡散されていることへの懸念を表明しました。これは、単なる著名人の有名税という話ではなく、生成AI技術が「個人のアイデンティティ」を容易に侵害できるレベルに達していることを示唆する重要な事例です。

昨今の生成AI、特に音声合成(Text-to-Speech)や音声変換(Voice Conversion)の技術革新は目覚ましく、数秒から数分のサンプル音声があれば、特定の人物の声色、抑揚、話し方の癖までを極めて高い精度で再現可能になっています。これを悪用した「ディープフェイク(Deepfake)」は、真偽の判断を困難にし、社会的信用を揺るがすリスクを孕んでいます。

日本企業における「なりすまし」の脅威シナリオ

この技術的進歩は、日本企業にとっても対岸の火事ではありません。特に警戒すべきは、ビジネスにおける「なりすまし」リスクの高度化です。

第一に、経営層になりすました詐欺(CEO詐欺)の高度化です。従来はメールベース(BEC:ビジネスメール詐欺)が主流でしたが、今後は電話やWeb会議において、経営者や取引先責任者の「声」をAIで再現し、緊急の送金を指示するといった手口が現実味を帯びてきます。日本では「オレオレ詐欺」のような特殊詐欺が社会問題化していますが、これがB2B領域にまで拡張される恐れがあります。

第二に、広報・ブランドリスクです。企業の公式発表を装った偽の音声データや動画が拡散された場合、株価への影響やブランドイメージの毀損は計り知れません。特に日本企業は「信頼」や「品質」を重んじる商習慣があり、一度失墜した信用の回復には多大なコストを要します。

法規制と技術的対策の現状

こうしたリスクに対し、法整備と技術の両面で対策が急がれています。日本国内では、AIによる生成物が著作権法やパブリシティ権(顧客吸引力を持つ氏名・肖像等の権利)を侵害するかどうかの議論が進んでいますが、個人の「声」そのものの権利保護については、まだ解釈が分かれる部分も多く、法的なグレーゾーンが存在します。

技術面では、AIで生成されたコンテンツであることを示す電子透かし(ウォーターマーク)技術や、C2PA(Coalition for Content Provenance and Authenticity)のような来歴証明の標準化が進んでいますが、悪意ある攻撃者がこれらを遵守するとは限りません。したがって、企業側での防衛策が必須となります。

日本企業のAI活用への示唆

今回の事例を踏まえ、日本企業の経営層や実務担当者は以下の観点で対策を進めるべきです。

1. アナログな確認プロセスの再評価と多要素認証

AIによる音声模倣が可能であることを前提に、重要な意思決定や送金指示においては「声」や「ビデオ通話」を過信しないことが重要です。普段とは異なる経路での指示があった場合は、必ず別の手段(社内チャットや既存の電話番号への折り返し)で本人確認を行うなど、ある種アナログな確認プロセスを業務フローに組み込むことが、最強の防衛策となります。ゼロトラスト(何も信頼しない)の原則を、サイバーセキュリティだけでなくコミュニケーションにも適用する必要があります。

2. AIガバナンスと従業員教育の徹底

「ディープフェイク技術で何ができるか」を全社員が正しく理解するためのリテラシー教育が急務です。エンジニアだけでなく、経理・財務部門や広報部門が技術の到達点を理解していなければ、詐欺やフェイクニュースの被害を防げません。また、自社がAIを活用して音声コンテンツなどを制作する場合のガイドライン(パブリシティ権への配慮や、AI生成である旨の明示など)を策定し、コンプライアンスを遵守する姿勢を対外的に示すことも重要です。

3. クライシスマネジメント計画の更新

経営者のフェイク音声が拡散した場合の対応マニュアルを整備しておくことも推奨されます。偽情報が出回った際、いかに迅速に公式見解を出し、火消しを行うか。SNSモニタリングを含めた危機管理体制の中に、「AIによるなりすまし」という項目を追加し、シミュレーションを行っておくことが、企業価値を守ることに繋がります。

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