米国で発生した、生成AIを用いた同僚へのハラスメント行為を巡る訴訟は、企業におけるAIリスク管理の新たな論点を示唆しています。外部からの攻撃や著作権侵害だけでなく、「従業員による悪用」という内部リスクに対し、日本の法規制や組織文化を踏まえてどのようなガバナンスを構築すべきか解説します。
米国事例に見る「AIハラスメント」の現実
生成AIの技術進展は目覚ましく、ビジネスの効率化に大きく貢献していますが、同時に負の側面も顕在化し始めています。米国ワシントン州で発生した訴訟事例は、企業や組織にとって無視できない警鐘を鳴らしています。
報道によると、ワシントン州パトロール(WSP)の警察官が、同僚から差別や報復を受けたとして訴訟を起こしました。特筆すべきは、その嫌がらせの手段として「AIによって生成された動画」が使われたという点です。訴状では、原告と同僚が制服姿で登場するAI生成動画が作成され、それがハラスメントの一環として利用されたと主張されています。
これまでディープフェイク(AIを用いて合成された人物の画像・動画)のリスクといえば、著名人の肖像権侵害や経営者になりすました詐欺などが主な論点でした。しかし、この事例は「一般の従業員が、職場の同僚を攻撃するためにAIツールを悪用する」という、極めて身近で深刻な内部リスクを浮き彫りにしました。
技術の民主化が招く「悪意の低コスト化」
かつて、精巧な偽造動画を作成するには高度な技術と高価な機材が必要でした。しかし現在では、スマートフォンアプリや安価なクラウドサービスを使えば、誰でも数分で「それらしい」画像や動画を生成できてしまいます。
これは、職場におけるいじめやハラスメントの敷居が劇的に下がったことを意味します。テキストベースの誹謗中傷に加え、視覚的にインパクトの強い偽造コンテンツが容易に作れるようになったことで、被害者の精神的苦痛や名誉毀損の度合いは深刻化する恐れがあります。
企業が支給するPCやネットワーク上では生成AIの利用を制限(ブロック)していても、従業員個人のデバイスや外部サービスを使われれば、技術的な防止は困難です。したがって、この問題は「ITセキュリティ」の枠を超え、「人事・労務管理」および「コンプライアンス」の課題として捉え直す必要があります。
日本の法規制と組織文化におけるリスク
日本国内に目を向けると、2020年(中小企業は2022年)より施行された「改正労働施策総合推進法(通称:パワハラ防止法)」により、企業には職場におけるパワーハラスメント防止措置が義務付けられています。
AIを用いて同僚の尊厳を傷つけるような画像・動画を作成・流布する行為は、精神的な攻撃としてパワハラに該当する可能性が高いだけでなく、刑法上の名誉毀損罪や侮辱罪に問われるリスクもあります。また、日本の組織文化として「場の空気」や「風評」を重んじる傾向があるため、一度こうした偽造コンテンツが社内SNSなどで拡散されると、被害者が職場にいられなくなるなど、深刻な人材流出につながりかねません。
しかし、多くの日本企業の就業規則やAI利用ガイドラインは、「情報の漏洩防止」や「著作権侵害の回避」に主眼が置かれており、「従業員間のAIを用いた加害行為」への言及はまだ少ないのが実情です。
日本企業のAI活用への示唆
AIを健全に活用し、組織を守るために、日本の経営層や実務担当者は以下の点に着目して対策を講じるべきです。
1. 就業規則とガイドラインのアップデート
既存のハラスメント防止規定に加え、AI利用ガイドラインにおいて「AI技術を用いて他者の肖像、音声、人格を模倣・改変し、尊厳を傷つけるコンテンツを作成・流布すること」を明確に禁止事項として明記する必要があります。「いたずら」や「冗談」のつもりであっても、懲戒処分の対象となり得ることを周知徹底することが重要です。
2. 従業員向け「AI倫理」教育の実施
AIリテラシー教育というと、プロンプトエンジニアリング(AIへの指示出し技術)などのスキル面に偏りがちです。しかし、今後は「AIを使ってやってはいけないこと」という倫理・モラル面の教育が不可欠です。生成されたコンテンツがどれほど他者を傷つける力を持つか、法的責任を含めて教育する必要があります。
3. 通報窓口と初動対応の整備
もし社内でAIによるハラスメント疑惑が発生した場合、デジタルデータは拡散が早いため、迅速な対応が求められます。ハラスメント相談窓口の担当者が、AI生成物(ディープフェイク等)の可能性がある事案に対して、どのように証拠保全し、調査を行うか、基本的なフローを策定しておくことが推奨されます。
AIは業務効率を飛躍的に高める強力なツールですが、使い方を誤れば組織を内部から破壊する凶器にもなり得ます。技術の導入とセットで、人間心理と組織統制の観点からのガバナンス強化が求められています。
