米国の医療ITメディアHealthcare IT Newsが報じたポッドキャストにおいて、電子カルテ(EHR)を用いた臨床試験の適格性判定に大規模言語モデル(LLM)を活用した際、看護師と同等の精度を保ちながら所要時間を大幅に短縮した事例が紹介されました。この劇的な効率化事例をもとに、日本企業が直面する「非構造化データ」の処理課題と、実務実装におけるリスク管理について解説します。
臨床試験スクリーニングにおける圧倒的な時間短縮
HIMSSCastで取り上げられた事例は、医療・製薬業界における生成AIのポテンシャルを象徴するものです。電子カルテ(EHR)のデータをもとに、患者が特定の臨床試験の条件(クライテリア)に合致しているかを判断するタスクにおいて、LLM(大規模言語モデル)を活用したシステムは、わずか2分半で処理を完了しました。対して、熟練した看護師が同じタスクを手作業で行った場合の平均所要時間は427分(約7時間)でした。
特筆すべきは、LLMが単に速いだけでなく、人間の専門家と「同等の精度」を記録したという点です。これは、LLMが専門用語の理解や文脈把握において、実務レベルの閾値を超えつつあることを示唆しています。膨大なテキストデータから条件に合う情報を抽出・照合する作業は、これまで人間が長時間かけて行う「ボトルネック」でしたが、AIがこれを代行、あるいは強力に支援できることが実証されました。
日本の医療現場と「非構造化データ」の壁
この事例を日本の文脈で捉え直すと、より切実なニーズが見えてきます。日本の医療現場では、電子カルテの普及は進んでいますが、そのデータ形式は標準化されておらず、医師ごとの自由記述(フリーテキスト)やPDFのスキャンデータなど、「非構造化データ」が大量に含まれています。これらは従来のルールベースのシステムや検索エンジンでは扱いづらい領域でした。
LLMの強みは、こうした非構造化データの意味を理解し、構造化データへと変換できる点にあります。日本でも「医師の働き方改革」が急務となる中、カルテの要約、紹介状の作成支援、そして今回の事例のような治験候補者のスクリーニングにおいて、LLMは医療従事者の長時間労働を是正する切り札となり得ます。
精度と責任の所在:Human-in-the-Loopの徹底
一方で、実務導入には慎重な設計が求められます。LLMには「ハルシネーション(もっともらしい嘘)」のリスクが常につきまといます。特に人命や健康に関わる医療分野では、AIの出力を鵜呑みにすることは許されません。
今回の米国の事例でも、成功の鍵は「AIによる完全自動化」ではなく、AIを「高度なフィルタリングツール」として位置づけている点にあると推察されます。最終的な判断は人間が行うものの、そこに至るまでの情報整理や候補の絞り込みをAIが担う「Human-in-the-Loop(人間が関与するプロセス)」の構築が不可欠です。日本企業が導入を検討する際も、AIを「判断者」ではなく「優秀なアシスタント」として設計し、最終確認のフローを業務プロセスに組み込むことが、ガバナンスの観点から重要です。
他業界への応用:日本企業の「文書文化」を変える
この「大量の文書から条件に合致するものを高速に抽出する」というユースケースは、医療に限らず、日本の多くの産業に応用可能です。
- 保険・金融:保険金請求書類の査定や、融資稟議における根拠資料のチェック。
- 法務・知財:膨大な契約書群からのリスク条項の洗い出しや、特許文献の調査。
- 製造・建設:過去の技術文書や日報からのトラブル事例の検索・抽出。
日本企業には依然として多くの「文書」が存在し、その読解に多大な人的リソースが割かれています。今回の事例は、これらの業務プロセスを抜本的に見直すヒントとなります。
日本企業のAI活用への示唆
今回のEHR解析の事例から、日本のビジネスリーダーやエンジニアが得るべき示唆は以下の通りです。
- 「読む」コストの削減に注力する:生成AIの活用は「生成(書くこと)」に注目されがちですが、実務的なROI(投資対効果)が出やすいのは、大量の資料を「読み解く(抽出・分類・判定)」プロセスです。自社に眠る非構造化データの山を見直してください。
- 100%を目指さない設計:AIに100%の精度を求めるとプロジェクトは頓挫します。「AIが90%の精度で候補を絞り込み、人間が残りを確認する」ことで、トータルの業務時間を99%削減できる可能性があります。完璧主義を捨て、プロセス全体での効率化を設計してください。
- 国内法規制とセキュリティへの配慮:医療データや個人情報を扱う場合、日本では個人情報保護法や次世代医療基盤法、各業界のガイドラインへの準拠が必要です。オンプレミス環境や、データが学習に利用されないセキュアなクラウド環境(Azure OpenAI ServiceやAWS Bedrockのプライベート接続など)の選定が前提となります。
