24 1月 2026, 土

マテリアルズ・インフォマティクスの深化:AIによる触媒設計が日本の製造業にもたらす転換点

過酸化水素(H2O2)などの基礎化学品の製造プロセスにおいて、AIを活用した新しい触媒設計の青写真が注目されています。従来の実験主導型アプローチからデータ駆動型アプローチへの転換は、日本の「モノづくり」にどのような変革をもたらすのか。最新の研究事例を端緒に、日本企業が取るべきR&D戦略とガバナンスについて解説します。

AIによる素材探索:実験室の「勘と経験」からの脱却

AI技術の進化は、テキストや画像の生成にとどまらず、物理化学の世界にも大きな影響を与えています。今回のトピックである「AIを活用した過酸化水素(H2O2)製造のための触媒設計」は、いわゆるマテリアルズ・インフォマティクス(MI)の進化を示す好例です。

過酸化水素は消毒剤から半導体洗浄、環境浄化まで幅広く利用される基礎化学品ですが、その製造効率を左右する「触媒」の選定は、従来、熟練研究者の知識と膨大なトライ&エラー(実験)に依存していました。ここにAI(機械学習やディープラーニング)を導入することで、原子レベルでの相互作用をシミュレーションし、有望な候補物質を高速にスクリーニングすることが可能になります。これは単なる効率化ではなく、人間の発想の枠を超えた「未知の材料」を発見する可能性を秘めています。

日本企業における「匠の技」と「データ駆動」の融合

日本は素材・化学産業において世界的な競争力を持っています。しかし、その強みは長年、現場の技術者や研究者の「暗黙知(匠の技)」に支えられてきました。AI活用の文脈において、これは強みであると同時に課題でもあります。

欧米の先行事例では、実験データのデジタル化と標準化が徹底されており、AIモデルの学習データが整備されやすい環境にあります。一方、多くの日本企業では、実験ノートが手書きであったり、データ形式が属人的であったりするケースが散見されます。今回の触媒設計のような成果を自社に取り入れるためには、まず「アナログな現場の知見を、AIが解釈可能な構造化データに変換する」という地道なプロセス(DXの基礎)が不可欠です。

R&D領域におけるAI活用のリスクと限界

AIによる材料探索は魔法の杖ではありません。実務的な観点から、以下のリスクと限界を理解しておく必要があります。

  • 「幻覚(ハルシネーション)」のリスク:生成AIが事実に基づかない文章を作るのと同様に、MIにおけるAIも、理論上は優れていても現実には合成不可能、あるいは不安定で危険な物質を「有望」として提案する可能性があります。
  • ウェット(実験)とドライ(計算)のギャップ:AI上のシミュレーション結果が、実際の実験室で再現できるとは限りません。AIの予測を最終的に検証するのは、依然として人間の実験です。
  • データバイアス:過去の成功事例ばかりを学習させると、AIは既存の延長線上の提案しかできなくなります(探索の局所最適化)。失敗データも含めた学習が必要です。

日本企業のAI活用への示唆

過酸化水素の事例から、日本の製造業や研究開発組織が得るべき示唆は以下の通りです。

1. 失敗データの資産化

日本企業は「成功実験」の記録は残しますが、「失敗実験」のデータは廃棄されがちです。AIの精度向上には「何がうまくいかなかったか」というネガティブデータが極めて重要です。R&D部門において、失敗を含めたあらゆる実験結果をデータベース化する文化とシステムを構築すべきです。

2. 人間参加型(Human-in-the-loop)プロセスの確立

AIにすべてを委ねるのではなく、AIが提案した触媒候補を専門家が評価し、その実験結果を再びAIにフィードバックするループを構築してください。これにより、ベテラン研究者の知見をAIに「継承」させることが可能になります。これは日本の技術継承問題への一つの解となります。

3. 法規制と化学物質管理への対応

AIが新規物質を提案した際、日本の「化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律(化審法)」や、労働安全衛生法などの規制に適合するかどうかのチェック機能が重要になります。AIシステム自体に法規制データベースを連携させる、あるいはコンプライアンス部門との連携フローをR&Dの初期段階に組み込むなど、ガバナンスを効かせた開発体制が求められます。

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