アムステルダム大学が「テクノロジー・ガバナンス」に特化した法学修士課程(LL.M.)を開設するというニュースは、生成AIの急速な普及に伴う法的・倫理的課題の複雑化を象徴しています。本稿では、グローバルな法規制の動向を踏まえつつ、日本企業が直面する「技術と法の乖離」を埋めるためのガバナンス体制と人材育成について解説します。
法学修士(LL.M.)と大規模言語モデル(LLM)の交差点
元記事にあるアムステルダム大学による「テクノロジー・ガバナンス」に関する法学修士課程(Advanced LL.M.)の開設は、一見するとアカデミックなニュースに過ぎないように見えます。しかし、AI実務者にとって非常に示唆に富んだ動きです。ここで言う「LL.M.」はラテン語のLegum Magister(法学修士)を指しますが、現在のテクノロジー業界で「LLM」といえばLarge Language Model(大規模言語モデル)です。この2つの「LLM」が今、急速に接近しています。
欧州における「EU AI法(EU AI Act)」の成立や、米国における大統領令など、生成AIを取り巻く法規制は世界的に厳格化しています。もはやエンジニアリングの知識だけ、あるいは伝統的な法務知識だけでは、AIプロダクトを安全に社会実装することが困難な時代に突入しました。テクノロジーと法規制の両方を理解し、適切なガバナンスを設計できる人材へのニーズが、教育機関のカリキュラムさえも変えつつあるのです。
日本企業における「技術と法務の分断」
日本国内に目を向けると、多くの企業で開発現場(エンジニア・データサイエンティスト)と管理部門(法務・コンプライアンス)の間に深い溝が存在しています。
エンジニアは「最新のオープンソースモデルを活用してサービス機能を拡張したい」と考えますが、法務部門は「著作権侵害や情報漏洩のリスクが払拭できないため許可できない」と判断しがちです。結果として、PoC(概念実証)止まりになったり、リスクを過度に見積もった結果、競合他社に遅れをとったりするケースが散見されます。
日本の著作権法(特に第30条の4)は、AI学習に対して比較的寛容であるとされていますが、生成物の利用(推論・出力)段階では通常の著作権侵害のリスクが存在します。また、個人情報保護法や、経済産業省・総務省による「AI事業者ガイドライン」への準拠も求められます。これらの複雑な文脈を、エンジニアと法務担当者が共通言語で語れていないことが、日本企業のAI活用における最大のボトルネックの一つです。
「守りのガバナンス」から「攻めのガバナンス」へ
AIガバナンスを単なる「禁止事項のリスト」と捉えるのは時代遅れになりつつあります。むしろ、明確なガードレール(安全柵)を設けることで、その範囲内でエンジニアが自由に、かつ高速に開発できるようにする「イネーブラー(実現させるための仕組み)」としてのガバナンスが求められています。
例えば、社内データを利用したRAG(検索拡張生成)システムを構築する場合、単に利用を許可するだけでなく、「入力してよいデータの機密度区分」や「出力のハルシネーション(もっともらしい嘘)に対する免責表示の設計」などを、プロダクトの初期段階から法務と技術が連携して策定する必要があります。これを後工程で行うと、手戻りが大きく、ビジネスのスピードを殺してしまいます。
また、日本特有の商習慣として、契約書における責任分界点の曖昧さが挙げられますが、AIサービスにおいてはSLA(サービス品質保証)や責任範囲を明確に定義することが、トラブル防止の観点から不可欠です。
日本企業のAI活用への示唆
グローバルの動向と国内の実情を踏まえ、日本の意思決定者や実務担当者は以下の点に留意すべきです。
- クロスファンクショナルなチーム組成:AIプロジェクトには、初期段階から法務・知財担当者を巻き込むこと。また、法務担当者に対して、LLMの仕組み(確率的な挙動や学習データの扱い)に関する基礎教育を行うことが重要です。
- 「アジャイル・ガバナンス」の実践:技術の進化は法改正よりも遥かに速いです。固定的なルールを作るのではなく、技術動向やガイドラインの改定に合わせて、柔軟に社内規定をアップデートし続ける体制(アジャイル・ガバナンス)を構築してください。
- 専門人材の育成と確保:「法務がわかるエンジニア」や「技術がわかる法務担当者」は極めて希少です。外部専門家の活用も有効ですが、中長期的には社内でブリッジ役となる人材を育成することが、企業の競争力に直結します。
アムステルダム大学の事例が示すように、「法と技術の融合」は世界の潮流です。日本企業も、技術導入だけでなく、それを支えるガバナンス体制の高度化に投資すべきタイミングに来ています。
