米国防総省とAIスタートアップAnthropicの間で生じた契約上の対立は、単なる軍事利用の是非にとどまらず、AIモデルの「安全性」を誰が定義するのかという根本的な問いを投げかけています。グローバルな安全保障の文脈で起きているこの議論は、外部AIモデルに依存する日本企業にとっても、ベンダーロックインやガバナンスの観点から無視できない示唆を含んでいます。
「安全性」の定義権を巡る攻防
2026年、米国防総省(ペンタゴン)と有力な生成AIベンダーであるAnthropicとの間で、AI技術の利用条件を巡る対立が表面化しています。Anthropicは創業以来、「Constitutional AI(憲法AI)」を掲げ、AIが有害な振る舞いをしないよう厳格な安全対策を講じてきました。彼らの利用規約(AUP)では、伝統的に兵器開発や人命に関わる高リスクな軍事作戦への利用を制限する傾向にあります。
一方で、国防総省は国家安全保障のために最先端の技術を必要としています。ここでの対立点は、「AIの安全性(Safety)」の定義です。ベンダー側にとっての安全性は「モデルが暴言を吐かない、差別をしない、武器の製造法を教えない」ことですが、国防側にとっての安全性は「敵対勢力より優位に立ち、自国の安全を守るための正確な判断支援」を意味します。この「安全」の定義のズレが、契約や技術実装の現場で摩擦を生んでいるのです。
エンタープライズ利用における「アライメント」の課題
この事例は、軍事領域に限った話ではありません。日本企業が業務にLLM(大規模言語モデル)を組み込む際にも同様の「アライメント(人間の意図や価値観への適合)」の問題が発生します。
例えば、ある企業が競合他社の分析や、法的なグレーゾーンを含むリスクシナリオのシミュレーションをAIに行わせたいとします。しかし、汎用的な商用LLM(OpenAIのGPTシリーズやAnthropicのClaudeなど)は、一般大衆向けの安全性フィルターが適用されているため、「それは倫理的に回答できません」と拒否されるケースがあります。企業の正当な業務遂行(防衛やリスク管理)が、ベンダー側の「一般的な倫理規定」によってブロックされるという構造です。
これは、基幹業務をSaaSやAPIに依存する際のリスク、いわゆる「プラットフォームリスク」のAI版と言えます。自社のビジネスロジックが、他社のポリシー変更一つで機能しなくなる恐れがあるのです。
「ソブリンAI」と国内モデルの重要性
こうした背景から、グローバルでは「ソブリンAI(Sovereign AI)」、つまり自国のデータと自国のルールで管理できるAI基盤を整備しようという動きが加速しています。日本においても、NTTやソフトバンク、NECなどが日本語に特化した国産LLMの開発を進めていますが、その本質的な価値は「日本語が流暢であること」だけではありません。
真の価値は、日本の法規制や商習慣、そして各企業のガバナンス基準に合わせて「ガードレール(安全装置)」を自前で設定できる点にあります。米国企業の倫理観や利用規約に縛られず、日本法の下で適法かつ倫理的な範囲であれば、自社の判断でAIをフル活用できる環境を確保することは、経済安全保障の観点からも重要視されています。
日本企業のAI活用への示唆
今回の米国防総省の事例を踏まえ、日本企業の実務家は以下の点に留意すべきです。
- 利用規約(AUP)の詳細な確認とリスク評価:
外部のLLM APIを利用する場合、自社のユースケース(特に金融、医療、セキュリティ分野など)がベンダーの禁止事項や将来的な規制強化に抵触しないか、法務・コンプライアンス部門と共に精査する必要があります。 - モデルの多様化とオープンソースの活用:
特定のベンダーAPIのみに依存することはBCP(事業継続計画)上のリスクとなります。機密性の高い業務や特殊な判断が必要な業務には、MetaのLlamaシリーズのようなオープンウェイトモデルを自社環境(オンプレミスやプライベートクラウド)でファインチューニングし、自社のポリシーで制御する選択肢を持つべきです。 - 「日本基準」のガバナンス構築:
シリコンバレーの基準をそのまま受け入れるのではなく、日本の「AI事業者ガイドライン」や自社の企業倫理に基づいた独自のAI利用ガイドラインを策定し、それに基づいてモデルの挙動を評価・監視する体制(MLOps/LLMOps)を整えることが求められます。
