マルタ共和国の裁判官が賃貸借契約に関する判決において、Googleの生成AI「Gemini」を参照した事例が報じられました。司法という厳格さが求められる領域でのAI活用は、業務効率化への期待と同時に、公平性や正確性に対する重大な問いを投げかけています。本稿では、この事例を起点に、高リスク領域でのAI活用の是非と、日本企業が押さえるべきガバナンスの要諦を解説します。
司法判断におけるAI利用の衝撃と波紋
マルタの司法現場で、歴史的な賃貸借法に関する判決において裁判官が生成AI(Gemini)を利用・言及したというニュースは、AIの実務適用における新たなマイルストーンであると同時に、潜在的な火種でもあります。これまでも米国などで弁護士がChatGPTを使用して実在しない判例を引用してしまい問題になった事例はありましたが、今回は「裁く側」である裁判官がAIをツールとして用いた点に重みがあります。
生成AIは膨大な法知識の要約や論点の整理において強力な力を発揮しますが、その出力が常に法的整合性を持ち、最新の判例に基づいている保証はありません。この事例は、AIが単なる「文章作成アシスタント」を超え、「意思決定の補助」というコア領域に踏み込みつつあることを示唆しています。
「ハルシネーション」のリスクと実務上の境界線
企業がこのニュースから学ぶべき最大の教訓は、LLM(大規模言語モデル)特有の「ハルシネーション(もっともらしい嘘)」のリスク管理です。司法判断において誤った情報の参照は許されませんが、これは企業のコンプライアンス業務や契約審査、人事評価などでも同様です。
生成AIは確率的に「次の単語」を予測する仕組みであり、事実の真偽を検証する機能は持ち合わせていません。そのため、法規制や社内規定などの正確性が求められる業務に適用する場合、AIの回答を鵜呑みにすることは極めて危険です。実務においては、RAG(Retrieval-Augmented Generation:検索拡張生成)のような技術を用いて、信頼できる社内データベースや法令データを参照元として提示させる仕組みの構築が不可欠となります。
日本国内の動向:リーガルテックと「人間の責任」
日本国内に目を向けると、契約書レビュー支援などの「リーガルテック」分野ではAI活用が急速に進んでいますが、最終的な判断は必ず人間(弁護士や法務担当者)が行うという建付けが一般的です。日本の法制度や企業文化において、説明責任(アカウンタビリティ)は常に人間に帰属します。
しかし、現場レベルでは「AIが大丈夫と言ったから」という過度な依存(Automation Bias)が生まれつつあるのも事実です。AIによる判断支援システムを導入する際は、「AIはあくまで起案や論点出しのツールであり、決定権者は人間である」という原則を、システム設計と運用ルールの両面で徹底する必要があります。
日本企業のAI活用への示唆
今回の事例を踏まえ、日本企業の意思決定者やAI推進担当者は以下の3点を意識してプロジェクトを進めるべきです。
1. 「生成・要約」と「判断」の明確な分離
メールの下書きや議事録要約には積極的にAIを活用すべきですが、採用可否、与信判断、法務チェックなどの「判断業務」においては、AIをあくまで「セカンドオピニオン」や「ドラフト作成者」として位置づけ、最終承認プロセスを厳格化する必要があります。
2. 参照元の透明性確保(Grounding)
業務でAIを利用する場合、回答の根拠となるソース(社内規定、法令、マニュアル等)を明示させる機能を実装してください。ユーザーが「なぜAIがそう回答したか」を一次情報に当たって検証できる環境を用意することが、ガバナンスの基本となります。
3. AIリテラシー教育とガイドラインの策定
従業員が勝手に公衆のAIツールに機密情報を入力しないようガイドラインを整備することはもちろんですが、「AIは間違える可能性がある」という前提を組織文化として定着させることが重要です。AIの回答を疑い、検証するスキルこそが、これからの実務者に求められる能力となります。
