生成AIの普及に伴い、メンタルヘルスに関する相談をAIに行うケースが急増しています。しかし、誤情報の拡散や不適切な助言を防ぐため、あえてユーザー体験(UX)に「摩擦(Friction)」を組み込むというアプローチが注目されています。本記事では、このグローバルトレンドを解説し、日本の法規制や企業実務における実装のポイントを考察します。
「シームレス」が正義とは限らない:AIとメンタルヘルス
近年、ChatGPTやClaudeなどの大規模言語モデル(LLM)が高い対話能力を獲得したことで、ユーザーが個人的な悩みやメンタルヘルスの問題をAIに相談する事例が増加しています。24時間いつでも利用でき、人間相手のような気兼ねがいらない点は、メンタルヘルスケアへのアクセス障壁を下げるメリットがあります。
しかし、これには重大なリスクも伴います。AIは「ハルシネーション(もっともらしい嘘)」を起こす可能性があり、医学的に不正確な助言や、自殺企図などの緊急性の高い状況に対して不適切な応答をする恐れがあるからです。
そこで現在、グローバルのAI開発やガバナンスの議論で浮上しているのが、「フリクション(摩擦)」を意図的にUX(ユーザー体験)に組み込むという考え方です。通常、アプリ開発では「いかに摩擦をなくし、スムーズに使わせるか」が重視されますが、生命や健康に関わる領域では、あえて「立ち止まらせる」設計が求められ始めています。
「意図的な摩擦」とはどのようなものか
具体的に、メンタルヘルスアドバイスにおける「摩擦」には以下のような実装が考えられます。
- 警告と免責の強制表示:対話の開始時や、AIが健康関連のトピックを検知した際に、「AIは医師ではありません」「緊急時は専門機関へ」といった警告をポップアップさせ、ユーザーが「同意」ボタンを押さない限り先に進めないようにする。
- 応答速度の調整:人間のような即答を避け、意図的に応答を遅らせることで、相手が機械であることを再認識させたり、ユーザーに冷静になる時間を与えたりする。
- 情報の「ぼかし」:センシティブな回答を表示する前に、ワンクッション置いてユーザーにクリックさせることで、受動的な情報の受け入れを防ぐ。
これらは一見するとUXを損なう「改悪」に見えるかもしれません。しかし、AIへの過度な依存や擬人化(AIを人間のように感じて感情移入しすぎること)を防ぎ、ユーザーを保護するためには必要な安全装置となります。
日本の法規制と「医師法」の壁
日本国内でAIを活用した相談サービスやヘルスケアアプリを展開する場合、この「摩擦」の考え方は、コンプライアンスの観点からも極めて重要です。
日本では医師法第17条により、医師以外の者が医業を行うことが禁じられています。AIが個別の症状に基づいて病名を特定したり、具体的な治療方針を指示したりすることは「診断」とみなされ、医師法違反となるリスクがあります。したがって、日本企業が開発するAIサービスでは、以下の線引きを明確にする「ガードレール(AIの出力を制御する仕組み)」が必須です。
- 診断ではなく「情報提供」に留める:「あなたの症状はうつ病です」ではなく、「一般的にそのような症状では、専門医への相談が推奨されます」といった一般論への誘導。
- ウェルネスと医療の区別:日常的なストレス管理や生活習慣のアドバイス(ウェルネス)と、疾患の治療(医療)を明確に分ける。
ここで「摩擦」のデザインが役立ちます。AIが医療的な判断に踏み込みそうになった瞬間に、自動的に対話を中断し、人間の専門家や相談窓口のリンクを提示するフローを強制することは、法的リスクを回避する上でも有効な手段です。
日本企業のAI活用への示唆
メンタルヘルス領域に限らず、人事(HR)相談や法務相談など、専門性が高くリスクを伴う社内チャットボットや顧客向けサービスを開発する際、以下の視点が重要になります。
1. UXにおける「安全性」の再定義
「使いやすさ」だけを追求するのではなく、「誤用させない」「過信させない」デザインを要件定義に含める必要があります。特に日本企業は「安心・安全」をブランド価値とすることが多いため、あえてステップ数を増やす(摩擦を加える)ことが、結果として信頼性向上につながります。
2. ハイブリッドモデルの構築
AIですべてを完結させようとせず、AIはあくまで「一次受け」や「情報の整理」に徹し、最終的な判断やセンシティブな対応は人間にエスカレーションする設計が現実的です。この「AIから人間へのハンドオーバー(引き継ぎ)」のプロセスこそ、最も丁寧に設計すべき「摩擦」のポイントです。
3. 社内ガバナンスとリテラシー教育
従業員が業務で汎用AI(ChatGPT等)を使用する際、メンタルヘルスや個人の機微な情報を入力しないようガイドラインを策定する必要があります。同時に、AIのアドバイスを鵜呑みにせず、必ず裏付けを取るという「Human-in-the-loop(人間がループに入ること)」の文化を組織内に根付かせることが求められます。
