最新のAIモデルでも、会話が長引くと当初の指示を忘れてしまうという現象は、多くの実務家が直面する課題です。Googleのコミュニティに寄せられた「Geminiの記憶」に関するユーザーの声を端緒に、大規模言語モデル(LLM)が抱えるコンテキスト(文脈)保持の限界と、日本企業が業務システムを構築する際に留意すべきアーキテクチャ設計、およびガバナンスのあり方について解説します。
「Geminiがすべてを忘れてしまった」という悲痛な声
Googleのサポートコミュニティにおいて、あるユーザーから「Geminiで3つのアシスタントを設定したが、ある時点ですべて失敗し、指示内容を完全に忘れてしまった」という報告が上がっています。これは特定のモデルに限った話ではなく、現在の大規模言語モデル(LLM)全般につきまとう「コンテキストウィンドウ(文脈として一度に処理できる情報量)」の限界や、注意機構(アテンション)の挙動に関連する根源的な課題です。
近年のモデルは「100万トークン対応」など、扱える情報量の拡大を謳っていますが、実務においては「扱える」ことと「正確に維持し続ける」ことは同義ではありません。特に、会話の履歴が長くなったり、複雑な指示(システムプロンプト)を与え続けたりすると、AIは初期の制約条件を見失ったり、直近の情報に過度に引きずられたりする傾向があります。これを踏まえずに業務プロセスを自動化しようとすると、重大な手戻りやコンプライアンス違反のリスクを招くことになります。
日本企業が直面する「高精度」への期待と現実
日本のビジネス現場、特に金融、製造、行政などの領域では、マニュアルやルールの厳格な遵守が求められます。「だいたい合っている」では許されない業務において、LLMが途中から「キャラ変」したり、禁止事項を無視し始めたりすることは致命的です。
例えば、社内規定に基づく問い合わせ対応ボットや、複雑な稟議書作成支援などのシナリオにおいて、AIが途中で「前提条件」を忘却してしまうと、誤った回答や架空の規則を生成(ハルシネーション)する原因となります。日本企業特有の「行間を読む」文化や、暗黙知を含んだ複雑な商習慣をAIに長期間維持させることは、プロンプトエンジニアリング(指示出しの工夫)だけでは限界があるのが現状です。
「記憶」をAI任せにしないシステム設計
この「忘却」問題に対する実務的な解決策は、AIモデル自身の記憶力に依存しないアーキテクチャを採用することです。具体的には、RAG(Retrieval-Augmented Generation:検索拡張生成)などの技術を用い、必要な情報をその都度、外部のデータベースやドキュメントから参照させる仕組みが不可欠です。
また、AIを「記憶を持つ継続的なパートナー」として扱うのではなく、「その都度、必要な情報を与えてタスクを処理させるステートレス(状態を持たない)なエンジン」として設計する方が、現時点では安定性が高まります。長い対話履歴をすべてAIに読ませるのではなく、要約して圧縮したり、重要な制約条件を毎回プロンプトの先頭に挿入し直したりする処理をシステム側で自動化することが、安定運用の鍵となります。
日本企業のAI活用への示唆
今回のGeminiユーザーの事例は、AI導入を検討する日本のリーダー層に対し、以下の重要な示唆を与えています。
1. 「AIの記憶」に対する過度な期待の排除
最新モデルであっても、長時間の対話や複雑なタスクにおいては「指示を忘れる」リスクがあることを前提にプロジェクトを計画してください。人手によるダブルチェックや、AIの回答を監視するガードレール機能の実装は必須です。
2. 業務の切り出しとステートレス化
一連の長い業務をすべてAIに任せるのではなく、工程を細分化(チェーン化)し、各工程で独立してAIを機能させる設計が有効です。これにより、コンテキストあふれによる精度低下を防ぐことができます。
3. ドキュメント管理の重要性再認識
AIが正しく振る舞うためには、参照すべきマニュアルや規定がデジタル化され、構造化されている必要があります。AI導入の前に、社内のナレッジマネジメントを見直すことが、結果としてAIの「記憶力」を補完する最強の手段となります。
AIは強力なツールですが、完璧な記憶力を持つ人間ではありません。その特性と限界を正しく理解し、システム全体で補完し合う設計こそが、日本企業におけるAI活用の成功への近道です。
