31 1月 2026, 土

「現場の知」とAIの融合:法規制・保険分野におけるAI活用の勘所

英UCL(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)の法学生が大手保険グループAspenを訪問し、環境賠償責任保険に関する実務ワークショップに参加したというニュースは、一見AIとは無関係に見えるかもしれません。しかし、高度な専門性が求められる「法務・保険」と「実務」の接点を学ぶこの取り組みは、生成AIや予測AIをビジネス実装する際に直面する「ドメイン知識の重要性」という課題に深く通じています。本稿では、この事例をヒントに、日本企業が専門領域でAIを活用する際の要諦について解説します。

専門領域におけるAI活用の壁と「現場知」の重要性

現在、多くの日本企業が汎用的な大規模言語モデル(LLM)の導入を進めていますが、法務、保険、医療、環境規制といった「専門性が高く、ミスが許されない領域」での活用には慎重な姿勢が見られます。汎用モデルは一般的な文書作成には長けていますが、特定の業界固有の商慣習や複雑なリスク評価においては、正確性を欠く(ハルシネーションなどの)リスクがあるためです。

今回取り上げたUCLの事例では、法学を学ぶ学生が実際の保険会社(Aspen)を訪れ、環境賠償責任というニッチかつ複雑なテーマについて実務的なワークショップを行っています。これはAI開発における「ファインチューニング(微調整)」や「RAG(検索拡張生成)」の構築プロセスに似ています。つまり、教科書的な知識(事前学習データ)だけでは不十分であり、現場の生きたデータや専門家の暗黙知(コンテキスト)を組み合わせなければ、実用的なソリューションは生まれないということです。

リーガルテック・インシュアテックにおける日本の課題

日本国内に目を向けると、労働人口の減少に伴い、熟練した査定員や法務担当者の業務をAIで代替・支援したいというニーズは急増しています。特に保険業界における引受審査や損害調査、あるいは企業のESG(環境・社会・ガバナンス)対応におけるコンプライアンスチェックなどは、AIによる効率化が期待される有望な領域です。

しかし、日本の法規制や商慣習は、明文化されていない「文脈」や、判例の繊細な解釈に依存する部分が多々あります。海外製のAIモデルをそのまま適用するだけでは、日本の「てにをは」のニュアンスや、行政指導の行間を読むといった高度な判断に対応しきれません。ここで重要になるのが、エンジニア任せにするのではなく、法務や現場のプロフェッショナルがAIの学習・検証プロセスに深く関与する「Human-in-the-Loop(人間参加型)」のアプローチです。

リスク管理とAIガバナンスのあり方

記事のテーマである「環境賠償責任」は、将来発生しうる甚大なリスクをどう評価するかという問題です。AIをこの領域に適用する場合、過去のデータに基づいてリスクを予測することになりますが、環境問題のように前例が少ない、あるいは状況が刻一刻と変わる事象に対して、AIは過去のデータに過学習してしまうリスクがあります。

日本企業がこうした専門領域でAIを活用する場合、AIの出力結果を鵜呑みにせず、「なぜその判断に至ったか」を人間が説明できる状態(XAI:説明可能なAI)を担保することが、ガバナンス上極めて重要です。特に金融・保険・法務分野では、規制当局や顧客への説明責任が求められるため、ブラックボックス化したAIの導入は経営リスクになり得ます。

日本企業のAI活用への示唆

今回のUCLとAspenの連携事例から、日本企業が得られる実務的な示唆は以下の通りです。

1. ドメインエキスパートの巻き込みを最優先する
AIプロジェクトをIT部門だけで完結させてはいけません。法務、リスク管理、現場のベテランなど、その領域の「勘所」を知る人材を初期段階からプロジェクトに参加させ、AIに教え込ませるべき知識の選定や出力の評価を行わせることが成功の鍵です。

2. 「完全自動化」ではなく「判断支援」から始める
環境賠償やコンプライアンスのようなハイリスクな領域では、AIに最終決定を委ねるのではなく、膨大な資料からの論点抽出や、リスクシナリオの提示といった「人間の専門家の判断を支援する」役割に徹させるのが現実的かつ安全なアプローチです。

3. 独自の「日本語・日本法」データの整備
グローバルモデルの性能は向上していますが、日本の特殊な商慣習や法規制に対応するためには、自社が保有する高品質な日本語データ(過去の事例、契約書、査定記録など)を整理し、RAG等の技術でAIに参照させることが競争優位の源泉となります。

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