Salesforceの収益責任者が、AIエージェントの普及において当面の収益性よりも顧客基盤の維持・拡大を優先する姿勢を示しました。この動きは、生成AIが単なる「付加機能」から、業務アプリケーションに不可欠な「インフラ」へと移行しつつあることを象徴しています。本稿では、このグローバルな動向が日本企業のシステム選定やAI開発戦略にどのような影響を与えるのか、ベンダーロックインのリスクや長期的なコスト構造の観点から解説します。
AIエージェントの「コモディティ化」とプラットフォームの覇権争い
米The Registerなどの報道によると、Salesforceの最高収益責任者(CRO)は、AIエージェント機能のライセンス提供において、長期的には赤字になっても構わないという姿勢を示しました。これは、単にAI機能で収益を上げることよりも、顧客を自社のエコシステム(生態系)に繋ぎ止めること(ロックイン)を最優先するという、明確な意思表示と言えます。
これまで生成AIの導入といえば、APIのトークン課金やGPUコストが主要な議論の対象でした。しかし、大手SaaSベンダーが「AI機能はプラットフォーム利用料の一部」として実質的な割引やバンドル提供を強化し始めると、市場のルールが変わります。特に自律的にタスクをこなす「AIエージェント」がSaaSに標準装備されるようになれば、ユーザーは個別にAIモデルを選定・契約する必要性が薄れます。
日本企業においても、CRM(顧客関係管理)やERP(統合基幹業務システム)などの基幹システムにおけるAI活用が進んでいますが、この動きは「どのAIモデルを使うか」という技術選定から、「どのプラットフォームにデータを預け、業務を委任するか」という経営判断へと、論点がシフトしていることを示唆しています。
日本企業が直面する「自社開発 vs SaaS機能」のジレンマ
この動向は、日本企業のIT戦略、特に「自社開発(Build)」か「既製品利用(Buy)」かの判断に大きな影響を与えます。
日本のエンジニアリング現場では、Azure OpenAI ServiceやAmazon Bedrockなどを利用し、RAG(検索拡張生成)システムを自社開発して社内データと連携させるアプローチが人気です。しかし、Salesforceのような巨大ベンダーが、高度にチューニングされ、かつ業務フローに統合されたAIエージェントを低価格(あるいは赤字覚悟の価格)で提供し始めた場合、自社開発のシステムがコストパフォーマンスと機能面で太刀打ちできなくなる可能性があります。
自社開発には、開発費だけでなく、運用保守(MLOps)、プロンプトエンジニアリングの維持、ガバナンス対応といった継続的なコストが発生します。「ベンダーが赤字覚悟で提供する高機能なエージェント」に対抗してまで自社開発を続ける意義があるのか、シビアなROI(投資対効果)の再評価が求められるでしょう。
「安価なAI」に潜むベンダーロックインのリスク
一方で、ベンダーによる「囲い込み」戦略には慎重なリスク評価が必要です。初期導入コストが安く抑えられたとしても、業務プロセスそのものが特定のSaaSベンダーのAIエージェントに依存しきってしまうと、将来的な価格改定やサービス変更に対して極めて脆弱になります。
特に日本企業は、一度導入したシステムを長く使い続ける傾向があり、データの移行(マイグレーション)に対するハードルが高い組織文化があります。AIエージェントが業務の文脈(コンテキスト)や暗黙知を学習・蓄積すればするほど、他社システムへの乗り換えは困難になります。これは「データの重力(Data Gravity)」ならぬ「ワークフローの重力」とも呼べる現象です。
また、ガバナンスの観点からも注意が必要です。SaaS組み込み型のAIを利用する場合、データの学習利用に関する規約や、個人情報保護法(APPI)への準拠状況、データの保存場所(データレジデンシー)が、日本企業のコンプライアンス基準を満たしているかを厳密に確認する必要があります。
日本企業のAI活用への示唆
以上の動向を踏まえ、日本のビジネスリーダーや実務者は以下の3点を意識して意思決定を行うべきです。
1. AI導入の「トータルコスト」の再定義
目先のライセンス費用だけでなく、将来的な依存リスク(スイッチングコスト)や、自社開発した場合のMLOpsコストを含めたトータルコストで比較検討を行ってください。ベンダーが赤字覚悟で提供してくる場合、数年後の価格上昇リスクを契約条項やシナリオプランニングに盛り込むことが重要です。
2. 「コア業務」と「ノンコア業務」の峻別
SaaS標準のAIエージェントに任せるべき「ノンコア業務(定型業務)」と、自社独自のデータを武器に自社開発のAIで差別化を図るべき「コア業務」を明確に分けてください。すべてをSaaSに委ねるのではなく、自社の競争力の源泉となるデータやプロセスについては、API連携などを通じてコントロール権を維持するハイブリッドな構成が現実的です。
3. ガバナンスと可観測性(オブザーバビリティ)の確保
AIエージェントがブラックボックス化しないよう、エージェントがどのようなロジックで判断を下したのかを追跡できる状態(可観測性)を確保することが、日本企業に求められる説明責任(アカウンタビリティ)の観点から重要です。ベンダー選定の際は、AIの挙動ログへのアクセス権限や透明性を評価基準に加えることを推奨します。
