世界的な法律事務所ベーカーマッケンジーが推進する「Applied AI(応用AI)」の実践は、専門性の高い領域でAIをどう実装すべきかの重要なケーススタディとなります。法的なリスク、技術的な実現可能性、そして商業的な現実性の3点をいかに統合し、ビジネス価値に変えていくか。そのアプローチは、法務部門のみならず、日本企業のあらゆる専門業務におけるAI活用の指針となります。
「実験」から「実装」へ:Applied AI(応用AI)の潮流
生成AIの登場以降、多くの企業がPoC(概念実証)を繰り返してきましたが、現在はそこから一歩進んだ「Applied AI」、つまり実業務への本格的な実装フェーズへと潮目が変わっています。ベーカーマッケンジーのDanielle Benecke氏が率いるチームは、単にAIツールを導入するだけでなく、AIネイティブな法務サービスの設計に取り組んでいます。
ここで重要となるのが、専門家としての「知見」とAIの「処理能力」の融合です。法律業務のようなミスが許されないハイリスクな領域において、AIは単なるチャットボット以上の役割を求められます。膨大な判例や契約書の分析、ドラフティングの補助といったタスクにおいて、AIがいかに「技術的に可能か(Feasibility)」だけでなく、「商業的に採算が合うか(Commercial Reality)」を見極める視点が不可欠となっています。
技術的実現可能性と法的リスクの狭間
大規模言語モデル(LLM)は流暢な文章生成を得意としますが、事実に基づかない情報を生成する「ハルシネーション」のリスクを抱えています。契約書レビューや法的助言において、このリスクは致命的です。そのため、グローバルな実務の現場では、汎用的なモデルをそのまま使うのではなく、信頼できる内部データベースや専門知識ベースを参照させるRAG(Retrieval-Augmented Generation:検索拡張生成)などの技術的アプローチが標準になりつつあります。
また、データプライバシーと機密保持は、法的リスク管理の核心です。特に日本企業は、個人情報保護法や著作権法への適合に加え、取引先との守秘義務契約(NDA)との兼ね合いでAI利用を躊躇する傾向があります。しかし、ベーカーマッケンジーのような先行事例は、セキュアな環境構築と厳格なガバナンスルールを設けることで、リスクを制御しながら活用が可能であることを示しています。「リスクがあるから使わない」ではなく、「リスクを技術とルールでどう封じ込めるか」という発想の転換が求められます。
日本企業特有の課題と「商業的現実」
「商業的現実(Commercial Reality)」という視点は、日本企業にとって特に重い意味を持ちます。どれほど高度なAIシステムであっても、現場のオペレーションに馴染まず、コストに見合う効率化や価値創出ができなければ意味がありません。
日本のビジネス現場では、稟議制度や紙文化、あるいは「阿吽の呼吸」といったハイコンテクストなコミュニケーションが依然として残っています。ここに欧米型のAIソリューションをそのまま持ち込んでも、定着しないケースが散見されます。日本企業における「商業的現実」とは、AI導入によって現場の業務フローが具体的にどう変わり、どれだけの工数削減や品質向上が見込めるかを、日本的な商習慣の中で定義し直すことです。
例えば、法務部門においては、契約書チェックの自動化だけでなく、過去のトラブル事例のナレッジ共有や、問い合わせ対応の一次回答の自動化など、日本語のニュアンスを汲み取ったチューニングが必要不可欠です。
日本企業のAI活用への示唆
ベーカーマッケンジーの取り組みから、日本のビジネスリーダーや実務者が得るべき示唆は以下の3点に集約されます。
1. 三位一体の評価軸を持つこと
AIプロジェクトを立ち上げる際は、「技術的にできるか(Technical Feasibility)」「法的に安全か(Legal Risk)」「ビジネスとして儲かるか/役に立つか(Commercial Reality)」の3つの円が重なる領域を狙ってください。どれか一つでも欠ければ、PoC止まりになるか、重大な事故につながります。
2. 「守り」を「攻め」の基盤にする
法規制やガバナンスを「AI活用の阻害要因」と捉えるのではなく、「安全にアクセルを踏むためのガードレール」と捉え直すことが重要です。明確なガイドラインを策定することで、現場のエンジニアや担当者は安心して開発や活用に専念できます。
3. Human-in-the-loop(人間参加型)の徹底
専門性の高い領域ほど、AIに全権を委ねることは現時点では非現実的です。AIはあくまでドラフト作成や調査の支援を行い、最終的な判断と責任は人間が負うという「Human-in-the-loop」のプロセスを業務フローに組み込むことが、品質担保と人材育成の両面で日本企業に適したアプローチと言えます。
