米国で「ChatGPT」を活用した本人訴訟(弁護士を立てない訴訟)が増加し、企業側の防御コストを押し上げる現象が起きています。生成AIによる法的文書作成の民主化は、日本の労働紛争やコンプライアンス実務にどのような影響を与えるのか。法務・人事部門が認識すべきリスクと、テクノロジーを活用した対抗策について解説します。
米国で急増する「AI武装」した個人による訴訟
近年、米国では弁護士を代理人に立てず、自ら訴訟を行う「本人訴訟(Pro se litigation)」において、生成AIが活用されるケースが顕在化しています。元記事の事例によれば、ある原告はAIを駆使し、40ページを超える申立書と数百ページに及ぶ証拠書類を作成・提出しました。
これまで、法的知識のない個人が企業を相手に訴訟を起こすには、膨大な時間と学習コスト、あるいは高額な弁護士費用という高いハードルが存在しました。しかし、ChatGPTやClaudeのような大規模言語モデル(LLM)の登場により、法的論点の整理や文書作成のコストが劇的に低下しています。
企業側(被告)にとって、これは脅威となり得ます。提出された文書がAIによって大量生成されたものであっても、法的手続きに乗った以上、企業の弁護士はそれらを精査し、反論する必要があります。たとえ原告の主張が法的に稚拙であっても、その「量」と「もっともらしさ」への対応が、企業の訴訟コスト(Time & Material)を押し上げる要因となっているのです。
日本企業への波及:労働紛争と「内容証明」のハードル低下
日本は米国ほど訴訟社会ではありませんが、このトレンドは無視できません。特に影響が予想されるのは、解雇、ハラスメント、残業代請求などの「労働紛争」の領域です。
日本において、生成AIの普及は以下のような変化をもたらす可能性があります。
- 文書作成の容易化:従業員が生成AIを使えば、過去の判例や労働基準法を参照した(ように見える)整った「通知書」や「内容証明郵便」の文案を数分で作成できます。
- 労働審判へのアクセス向上:通常の訴訟よりも簡易で迅速な「労働審判」の手続きにおいて、申立書の作成支援にAIが使われることで、申し立ての心理的・実務的ハードルが下がります。
- SNSや内部通報との連動:告発文やSNS投稿の作成にもAIが使われ、企業のリレピュテーションリスク(評判リスク)を高める要因となります。
つまり、企業は今後、「AIによって武装された、論理構成がしっかりしている(ように見える)クレームや法的要求」に直面する頻度が増えることを覚悟しなければなりません。
「ハルシネーション」という諸刃の剣
一方で、生成AIには「ハルシネーション(もっともらしい嘘)」というリスクがつきまといます。米国ではすでに、弁護士がChatGPTを使って存在しない判例を裁判所に提出し、懲戒処分を受けた事例が発生しています。
これは「ChatGPT原告」側にとってもリスクですが、受け取る企業側にとっても重要なポイントです。AIが生成した文書は、一見すると非常に論理的で専門用語も正しく使われているように見えますが、引用されている判例が存在しなかったり、条文の解釈が独自の創作であったりする可能性があります。
企業の人事・法務担当者は、送られてきた文書に圧倒されることなく、「AIが書いた可能性」を念頭に置き、ファクトチェックを徹底する必要があります。AIの文章力に惑わされず、事実関係と法的根拠の真偽を見極めるリテラシーが、これまで以上に求められます。
日本企業のAI活用への示唆
「ChatGPT原告」の台頭に対し、日本企業は単に恐れるだけでなく、自らの業務プロセスを見直す契機とすべきです。以下に実務的な示唆をまとめます。
1. 法務・人事対応の「質」と「スピード」の強化
相手がAIを使って攻めてくる以上、企業側も人力のみで対応していてはリソースが枯渇します。契約書レビューや社内規程の照会、過去の類似トラブルの検索などにAI(リーガルテック)を活用し、防御側の生産性を高める必要があります。AIにはAIで対抗する体制づくりが不可欠です。
2. 記録のデジタル化と証拠保全(Legal Opsの推進)
労働紛争において最強の防御は「正確な事実記録」です。勤怠データ、メール、チャットログ、人事評価記録などを適切にデジタル管理し、有事の際に即座に検索・抽出できる状態にしておくこと(eディスカバリへの備えに近い発想)が重要です。AIは文書を作れますが、事実は作れません。事実で対抗するためのデータ基盤整備を進めましょう。
3. 生成AI文書を見抜くリテラシー教育
法務部だけでなく、現場の管理職やHR担当者に対し、生成AIの特性(特にハルシネーションのリスク)を教育する必要があります。「論理が通っているから正しい」と思い込まず、一次情報の裏取りを徹底する文化を醸成してください。
生成AIは、個人の権利主張をサポートする強力なツールであると同時に、企業のガバナンス能力を試す試金石でもあります。この非対称性を理解し、冷静かつ技術的に武装することが、これからの企業防衛の鍵となります。
