OpenAI社が公表したレポートにより、中国の法執行機関関係者が日本の政治情勢への干渉を意図してChatGPTを利用していた事実が明らかになりました。この事例は、生成AIが国家間の「影響工作」に利用されるリスクを浮き彫りにしただけでなく、日本企業にとっても、従来のセキュリティ常識が通用しなくなっていることを示唆しています。本稿では、この事例を端緒に、生成AI時代の新たなリスク管理とガバナンスについて解説します。
「言葉の壁」の崩壊と高度化するサイバーリスク
OpenAI社が最近公表したレポートによると、中国の法執行機関に関連するユーザーが、日本の岸田前首相や高市早苗氏を含む政治家を標的とした批判的なコメント生成や、偽情報の拡散計画にChatGPTを使用していたことが判明しました。OpenAI側はこの活動を検知し、アカウントを停止しましたが、この一件は日本のAI実務者にとって非常に重要な事実を突きつけています。
これまで、日本語という言語の複雑さは、海外からのサイバー攻撃やフィッシング詐欺、偽情報キャンペーンに対する一種の「防波堤」として機能してきました。不自然な日本語や文法ミスが、攻撃を見抜く手がかりとなっていたのです。しかし、大規模言語モデル(LLM)の進化は、この「言葉の壁」を事実上無効化しました。今回の事例は、AIを利用すれば、海外の攻撃者がネイティブレベルの自然な日本語で、政治的な扇動から企業の信用毀損まで、あらゆる「影響工作(Influence Operations)」を実行可能であることを示しています。
企業に向けられる矛先:ソーシャルエンジニアリングの脅威
国家レベルの政治的干渉だけでなく、このリスクは一般企業にも直結します。生成AIの悪用により、ビジネスメール詐欺(BEC)やスピアフィッシング(特定の個人・組織を狙った攻撃)の精度が飛躍的に向上しています。
例えば、取引先の担当者や自社の経営層になりすましたメールやメッセージが、違和感のない日本語で作成されるリスクを想像してください。さらに、公開されている幹部の音声データなどを学習させた「ディープフェイク音声」と組み合わせることで、攻撃の信憑性は極めて高くなります。もはや「怪しい日本語かどうか」でセキュリティリスクを判断する教育は時代遅れとなりつつあり、企業はゼロトラスト(何も信頼しない)を前提としたプロセス設計への転換を迫られています。
プラットフォーマーの対策と限界
OpenAIのような主要なAIベンダーは、こうした悪用を防ぐために「レッドチーミング(攻撃者視点でのテスト)」や、不審な利用パターンを検知するモニタリング体制を強化しています。今回の事例で攻撃が未然に、あるいは早期に特定されたことは、プラットフォーマー側の対策が一定機能している証左でもあります。
しかし、攻撃者は常に抜け道を探します。オープンソースのLLMをローカル環境で動作させ、ガードレール(安全装置)を解除して悪用するケースも増えています。したがって、企業側は「AIベンダーが守ってくれる」という受動的な姿勢ではなく、AI生成コンテンツによる攻撃を受けることを前提とした能動的なリスク管理が必要です。
日本企業のAI活用への示唆
今回のインシデントは、AI活用のリスク側面を浮き彫りにしましたが、だからといってAI活用そのものを萎縮させるべきではありません。日本企業は以下の3点を念頭に、AIガバナンスを強化すべきです。
1. セキュリティ教育のアップデート
従業員に対し、「日本語の流暢さは信頼の証ではない」という認識を徹底させる必要があります。重要な意思決定や送金指示においては、メールやチャットだけでなく、物理的な確認や多要素認証を必須とする業務プロセスの見直しが求められます。
2. 危機管理広報(クライシスマネジメント)の準備
自社や自社製品に関する「偽情報」や「ネガティブキャンペーン」が、生成AIによって大量かつ巧妙に拡散されるリスクがあります。SNS上の不自然な言論操作をモニタリングする体制や、フェイクニュース発生時の迅速な事実確認・公表フローを整備しておくことが重要です。
3. 技術的対策の導入検討
コンテンツの真正性を証明する技術(オリジネーター・プロファイルやC2PAなどの来歴証明技術)の動向に注目し、将来的には自社の発信情報に電子透かしや署名を付与することで、なりすましを防ぐ対策も検討の遡上に載せるべきでしょう。
AIは業務効率化の強力な武器ですが、同時に攻撃者の武器にもなり得ます。リスクを正しく恐れ、対策を講じた上で活用を進める「守りのDX」が、これからの日本企業には不可欠です。
