生成AIの進化は「対話」から「行動」へとフェーズを移しつつあります。Mastercardが実演した「AIエージェントによる映画チケットの代理購入」は、AIがユーザーに代わって決済まで完了させる「エージェンティック・コマース」の到来を予感させるものです。本記事では、この技術的潮流を解説しつつ、日本の商習慣や法規制の観点から、企業が備えるべき戦略とリスク対応について考察します。
「対話するAI」から「行動するAI」へ
これまで私たちが目にしてきたChatGPTなどの大規模言語モデル(LLM)は、主にテキストの生成や要約、コードの記述といった「情報処理」に特化していました。しかし、現在グローバルで注目されているのは、AIが自律的にツールを使いこなし、現実世界のアクションを実行する「AIエージェント」です。
その象徴的な事例として、Mastercardがデモンストレーションを行った「AIによる映画チケットの代理購入」が挙げられます。これは単に映画の情報を検索するだけでなく、座席を選び、決済手段を選択し、購入を完了させるという一連のプロセスをAIが自律的に行うものです。ユーザーは「今週末の夜、アクション映画が見たい」と伝えるだけで、あとはAIが好みを推測し、複雑な画面操作なしにチケットが手に入ります。
この「エージェンティック・コマース(Agentic Commerce)」と呼ばれる潮流は、ECサイトのUX(ユーザー体験)を根本から変える可能性を秘めています。しかし、そこには利便性と表裏一体の「恐怖」、すなわちリスクと責任の問題が横たわっています。
企業が直面する「責任分界点」の曖昧さ
AIエージェントが普及した際、最大の論点となるのが「誤購入時の責任」です。もしAIがユーザーの意図を読み違えて高額な商品を購入したり、キャンセル不可のチケットを予約してしまったりした場合、その責任は誰にあるのでしょうか。
日本の現行法において、AIは法人格を持たないため、原則としてはAIを利用したユーザーの責任、あるいはAIサービスの提供者(プラットフォーマー)の瑕疵責任が問われることになります。しかし、AIの判断プロセスがブラックボックス化している場合、予見可能性の立証は困難です。
日本企業がこの技術をサービスに組み込む場合、利用規約での免責事項の設計はもちろん、AIが決済を実行する直前に「本当にこれでよいか」を人間に最終確認させる「Human-in-the-loop(人間による介在)」の設計が、コンプライアンスおよび顧客満足度の観点から不可欠となるでしょう。完全自動化は技術的に可能でも、商習慣としては段階的な導入が求められます。
「対AIマーケティング」という新たな戦場
消費者がAIエージェントを通じて買い物をするようになると、企業のマーケティング戦略も変化を迫られます。これまでは人間の目に留まるための広告やUI/UXデザインが重要でしたが、今後は「AIエージェントに選ばれるための最適化」が必要になります。
これを「Agent Engine Optimization (AEO)」などと呼ぶ動きもありますが、要するに、自社の商品データがLLMにとって読みやすく、構造化されており、かつ信頼性の高い情報としてAPI経由で取得可能になっているかが勝負の分かれ目となります。日本国内のECサイトや予約システムは、依然としてレガシーな構造が残っている場合が多く、APIエコシステムの整備が遅れている企業は、AIエージェント経済圏から取り残されるリスクがあります。
日本企業のAI活用への示唆
グローバルの潮流と日本の現状を踏まえ、意思決定者やエンジニアは以下の3点を意識してプロジェクトを進めるべきです。
1. APIファーストなインフラ整備
AIエージェントが自社サービスを利用できるようにするためには、Webサイトの見た目を整えるだけでなく、在庫確認や注文処理を行える堅牢なAPIの公開・整備が急務です。これは社内業務効率化における「社内AIエージェント」の活用においても同様の基盤となります。
2. 段階的な自律性の付与とガバナンス
いきなり「全自動決済」を目指すのではなく、まずは「カートへの追加までをAIが行い、最終決済は人間が承認する」といったフローから始めるのが現実的です。日本の消費者は正確性を重視するため、AIのハルシネーション(もっともらしい嘘)による誤発注はブランド毀損に直結します。
3. 新たな購買体験の設計
単なる効率化だけでなく、日本の「おもてなし」文脈でのAI活用を検討すべきです。例えば、過去の購買履歴や文脈から、きめ細やかな提案を行うコンシェルジュ型のAIエージェントは、日本の高付加価値サービスと相性が良いはずです。
「勝手に買い物をするAI」は技術的には既に現実のものとなりつつあります。これを脅威と捉えるか、新たな販路拡大のチャンスと捉えるか。その差は、今どれだけ「AIに読まれる・使われる準備」ができているかにかかっています。
