フランスの製薬大手サノフィ(Sanofi)のCEOが語る2026年のビジョンは、全産業にとって重要な示唆を含んでいます。同社ではすでに、新薬開発のフェーズ移行判断という極めて重要な会議の冒頭で「AIエージェントによる評価」が提示されています。本稿では、チャットボットを超えた「自律型AIエージェント」の企業実装と、日本企業が意識すべきガバナンスと組織設計について解説します。
開発委員会の「最初の発言者」はAIエージェント
生成AIブームが一巡し、多くの企業が「対話型AIによる業務効率化」から「基幹業務へのAI統合」へと関心を移しつつあります。その最前線を示す事例として、製薬大手サノフィのポール・ハドソンCEOによる発言が注目されています。
Fortune誌の報道によると、同社の新薬開発委員会(drug development committee)では、候補薬を次の治験フェーズに進めるべきかどうかの審議において、会議の冒頭に「AIエージェントによる評価」が行われているとのことです。製薬業界において、開発パイプラインのフェーズ移行(Go/No-Go判断)は、数十億ドル規模の投資と数年の期間を左右する極めて重い経営判断です。
ここで重要なのは、AIが人間を排除して勝手に決定しているわけではなく、人間が議論を始める前の「客観的な判断材料の提供者」として機能している点です。これは、AIが単なる検索ツールや要約ツールを超え、複雑なデータに基づいて推奨(レコメンデーション)を行う「意思決定支援パートナー」としての地位を確立し始めていることを意味します。
生成AIから「エージェント型AI」への進化
この事例は、AIのトレンドが「チャットボット」から「エージェント(Agentic AI)」へと移行していることを象徴しています。
従来のLLM(大規模言語モデル)の活用は、人間がプロンプトを入力し、それに対して回答を得る受動的なものでした。一方、AIエージェントは、与えられた目標(例:この新薬候補の成功確率とリスクを評価せよ)に対して、自律的に社内外のデータを検索・分析し、推論を行い、結論を導き出します。
サノフィの場合、過去の治験データ、競合他社の動向、論文データなどを統合的に分析し、人間の認知バイアス(「ここまで投資したのだから続けたい」というサンクコスト効果など)を排除した冷徹な予測を行っていると考えられます。このように、特定の専門領域(ドメイン)に特化したデータとロジックを持つエージェントを業務プロセスに組み込むことが、2026年に向けた企業競争力の源泉となるでしょう。
日本の組織文化とAIによる意思決定支援
日本企業において、このような「AIによる判断」を導入するには、技術面以上のハードルが存在します。日本特有の「合意形成(根回し)」や「責任の所在」を重視する組織文化において、AIの出力結果をどのように扱うかは繊細な問題です。
しかし、だからこそAIエージェントの活用には大きなチャンスがあります。日本の会議では、声の大きな人の意見や、空気に流された決定が行われるリスクが常に存在します。会議の冒頭で、データに基づいたAIの客観的評価(セカンドオピニオン)を提示することは、議論の質を高め、忖度のない合理的な判断を促すきっかけとなります。
一方で、リスクもあります。AIが「ハルシネーション(もっともらしい嘘)」を出力する可能性はゼロではありません。したがって、AIの評価を鵜呑みにするのではなく、あくまで「人間の専門家が検証すべきドラフト」として扱う「Human-in-the-loop(人間が関与するループ)」の設計が不可欠です。サノフィの事例でも、最終決定権は人間にあります。
日本企業のAI活用への示唆
サノフィの事例を踏まえ、日本企業の経営層やリーダー層が取り組むべきポイントを整理します。
1. AIを「ツール」から「チームメンバー」へ再定義する
AIを単なる便利ツールとして扱うのではなく、特定のタスク(例:市場分析、リスク評価、コードレビュー)を担当する「ジュニアアナリスト」や「アシスタント」として定義してください。彼らにどのような権限を与え、どこで人間の承認(承認フロー)を挟むかを業務プロセス図に落とし込む必要があります。
2. ドメイン特化型データの整備(データガバナンス)
AIエージェントが高度な判断を下すためには、社内の高品質なデータが不可欠です。議事録、過去の失敗事例、技術文書などが、AIがアクセス可能な状態で整理されているでしょうか。日本企業に多く見られる「紙文化」や「属人化された暗黙知」を、AIが読める形式(構造化データやベクトルデータベース)に変換することが、実装への第一歩です。
3. AIの「不完全性」を許容する組織文化の醸成
「100%の精度でなければ使えない」というゼロリスク志向では、AI活用は進みません。AIは間違える可能性があるという前提で、それを人間がどのように補完し、監査するかという「リスクマネジメント」の観点を持つことが重要です。AIガバナンスのガイドラインを策定し、現場が萎縮せずにAIを活用できるガードレールを設けることが、リーダーの役割です。
