生成AIの進化により、ソフトウェア開発のコストが劇的に下がる中、「既存のSaaSプロダクトはAIによって容易に模倣(クローン)され、優位性を失うのではないか」という懸念が投資家や市場の一部で囁かれています。しかし、クラウド会計ソフト大手XeroのCEOはこれを明確に否定しました。本稿では、AI時代において「模倣されやすいビジネス」と「されにくいビジネス」の違いは何か、そして日本企業が構築すべき「AI時代参入障壁(Moat)」について解説します。
「コードが書けるAI」がもたらしたSaaS市場への懸念
大規模言語モデル(LLM)のコーディング能力が飛躍的に向上したことで、これまで数ヶ月かかっていたアプリケーション開発が数日、あるいは数時間で可能になりつつあります。この技術革新は、開発効率の向上という恩恵をもたらす一方で、既存のSaaS企業にとっては脅威論として語られることも増えました。「機能要件さえ定義できれば、AIが類似のソフトウェアを安価に複製(クローン)できてしまうのではないか」という懸念です。
特に、単なるデータの入力フォームとデータベースを組み合わせただけのシンプルなCRUD(作成・読み出し・更新・削除)アプリや、既存のLLMのAPIをラップしただけの「Wrapper(ラッパー)」と呼ばれるサービスは、確かに模倣のハードルが下がっており、差別化が難しくなっています。しかし、XeroのCEO、Sukhinder Singh Cassidy氏が指摘するように、エンタープライズや業務クリティカルな領域においては、話はそう単純ではありません。
「信頼」と「エコシステム」はコピーできない
なぜXeroのような業務SaaSは簡単にクローンできないのでしょうか。最大の理由は、ソフトウェアの価値が「コードそのもの」ではなく、そこに蓄積された「固有データ」と「信頼」、そして「複雑な連携(エコシステム)」にあるからです。
会計ソフトを例に取れば、単に仕訳を入力するインターフェースを作ることはAIで容易かもしれません。しかし、各国の複雑で頻繁に改正される税法への完全な準拠、数千の銀行APIとの安定した接続、過去数年分にわたる顧客の財務データの蓄積、そして「このソフトが出力した数字なら間違いない」という税務署や金融機関からの信頼は、生成AIが一朝一夕に生成できるものではありません。
特に金融や医療、法務といった「間違いが許されない」領域では、AI特有のリスクであるハルシネーション(もっともらしい嘘)への対策が不可欠です。既存のSaaSプレイヤーは、長年の運用で培ったルールベースのロジックとAIを組み合わせることで、信頼性を担保しています。ここが、新規参入のAIネイティブなサービスに対する強力な「堀(Moat)」となります。
日本企業のAI活用への示唆
Xeroの事例は、DXやAI活用を推進する日本企業に対し、以下の重要な示唆を与えています。
1. 自社独自の「データ」こそが最大の防御壁になる
AIモデル自体(GPT-4やClaudeなど)はコモディティ化が進んでいます。日本企業がAIを活用したプロダクトや社内システムを構築する際、モデルの性能だけで勝負するのは得策ではありません。他社がアクセスできない「自社独自の商流データ」「顧客の行動ログ」「熟練社員の暗黙知」をいかにAIに参照させ(RAGやファインチューニング)、独自の価値を出せるかが勝負となります。
2. 日本特有の「商習慣・法規制」への対応を強みにする
日本はインボイス制度や電子帳簿保存法など、独自の法規制や細かい商習慣が存在します。グローバルな汎用AIモデルだけでは、これらに完全に対応することは困難です。これらの「面倒なローカルルール」を、AIと既存のロジックを組み合わせて正確に処理できるワークフローを構築すること自体が、外資系テックジャイアントや新規参入者に対する強力な参入障壁になります。
3. 「AIによる自動化」と「責任の所在」を明確にする
「AIでSaaSをクローンできる」という議論は、機能面のみに注目しがちですが、実務では「誰が責任を持つか」が重要です。特に日本の組織文化では、AIが出したアウトプットに対する説明責任が求められます。AIを「全自動の魔法」としてではなく、人間が最終判断を下すための「超高機能なアシスタント」として業務プロセス(UX)に組み込む設計こそが、現場で定着し、長く使われるサービスの条件となるでしょう。
