CISO(最高情報セキュリティ責任者)が取締役会で「AIセキュリティ」と言及した際、その具体的な意味を組織全体で共有できているでしょうか。本稿では、曖昧になりがちな「AIセキュリティ」の領域を「AIを守る」視点と「AIで守る」視点に整理し、日本企業が直面する組織的な課題と、実務に即したガバナンスの構築について解説します。
「AIセキュリティ」という言葉の多義性
企業におけるAI活用が急速に進む中、経営会議や現場の定例会で「AIセキュリティ」という言葉が飛び交うようになりました。しかし、この言葉は文脈によって全く異なる意味を持つことがあり、それが意思決定の遅れや誤解を招く原因となっています。
元記事でも触れられているように、CISOが懸念を示しているのは「AIシステムそのものが攻撃されること」なのか、それとも「AIを使って自社のセキュリティを強化すること」なのか、あるいは「従業員がAIを使う際の情報漏洩リスク」なのか。まずはこの領域(ドメイン)を明確に定義することが、組織的なAI活用の第一歩です。
1. Security for AI:AIシステムそのものを守る
まず実務的に最も警戒すべきは、自社で開発・運用するAIモデルや、利用するLLM(大規模言語モデル)そのものを標的とした攻撃への対策です。これを「Security for AI」と呼びます。
ここでは従来のサイバーセキュリティとは異なる、AI特有の攻撃手法への理解が必要です。例えば「プロンプトインジェクション」は、AIに対して特殊な命令文を入力することで、開発者が意図しない挙動を引き出したり、機密情報を出力させたりする攻撃です。また、学習データに悪意のあるデータを混入させてモデルの判断を歪める「データポイズニング」などのリスクもあります。
日本企業がチャットボットを顧客対応に導入したり、社内ナレッジ検索にRAG(検索拡張生成)を用いたりする場合、これらの攻撃によって不適切な発言をさせられたり、社外秘情報が引き出されたりすることは、重大なレピュテーションリスク(評判リスク)に直結します。
2. AI for Security:AIを防御の手段として使う
もう一つの側面は、セキュリティ運用におけるAIの活用、すなわち「AI for Security」です。サイバー攻撃の高度化・自動化に対抗するため、防御側もAIを用いてログ分析や異常検知を自動化する動きです。
SOC(セキュリティオペレーションセンター)において、膨大なアラートの中から真に危険なものをAIが選別することで、セキュリティ担当者の負荷を軽減する効果が期待されています。しかし、ここで注意すべきは「AIは魔法の杖ではない」という点です。AIは誤検知(過検知や見逃し)を起こす可能性があり、最終的な判断には依然として人間の専門家の介入が必要です。過度な自動化は、逆にリスクを見えなくする恐れがあることを認識しておく必要があります。
3. 組織のサイロ化と「責任の所在」
AIセキュリティにおける最大の課題は、技術よりも「組織構造」にある場合が少なくありません。特に日本の大企業では、AI活用を推進する「DX推進部」と、リスク管理を担う「情報システム部(セキュリティ部)」、そして法的整合性を確認する「法務部」が縦割りになっているケースが散見されます。
DX部門はスピードを重視してAIを導入したがる一方で、セキュリティ部門は前例のないリスクを恐れてブレーキをかける。この対立構造のままでは、安全なAI活用は進みません。AIのリスクは、技術的脆弱性だけでなく、個人情報保護法や著作権法、さらには倫理的なバイアスなど多岐にわたるため、これらを横断的に管轄する機能が不可欠です。
日本企業のAI活用への示唆
グローバルな視点と日本の現状を踏まえ、企業がとるべきアクションは以下の通りです。
1. 「AIセキュリティ」の定義を社内で統一する
議論の際は、現在話しているのが「AIモデルの保護(Security for AI)」なのか「AIによる業務効率化に伴うガバナンス(Data Privacy/Governance)」なのかを明確に区別してください。これにより、誰がオーナーシップを持つべきかが明確になります。
2. 既存のセキュリティ評価プロセスの拡張
AIは従来のソフトウェアとは異なり、一度リリースして終わりではなく、データの変化に伴い挙動が変わります。従来の脆弱性診断に加え、LLM向けのセキュリティガイドライン(OWASP Top 10 for LLMなど)を参考に、継続的なモニタリング体制を構築することが重要です。
3. 「禁止」ではなく「ガードレール」を設ける
リスクを恐れるあまり「生成AIの利用全面禁止」とする日本企業も一部に見られますが、これは「シャドーAI(社員が個人のスマホ等で勝手に業務利用すること)」を誘発し、かえって危険です。安全な利用環境と明確なガイドライン(ガードレール)を整備し、監視下で活用させることが、結果として最も実効性の高いセキュリティ対策となります。
