生成AIの普及に伴い、社内ヘルプデスクやIT部門に対し、ユーザーが「AIの回答」を根拠に誤った対応を求める事例が増えています。本記事では、この現象を単なる笑い話として片付けず、企業が直面する「AIリテラシーの格差」や「シャドーAI」の問題として捉え、日本企業が取るべき現実的な対策とガバナンスのあり方を解説します。
「AIの回答」を絶対視するユーザーと、疲弊する専門家
近年、ITサポートの現場で奇妙な現象が起きています。システムの不具合や操作方法に関する問い合わせにおいて、エンドユーザーが「ChatGPTに聞いたらこうすれば直ると言われた」「Copilotによるとこの設定が間違っているそうだ」と、生成AIの回答を根拠にIT担当者に詰め寄るケースです。
しかし、現場のプロフェッショナルから見れば、そのAIの回答は「完全に間違っている」か「情報が古すぎて自社の環境には適用できない」ことが多々あります。大規模言語モデル(LLM)は確率的に「もっともらしい文章」を生成することに長けていますが、事実の正確性を保証するものではありません。特に、各社固有のカスタマイズが施された社内システムや、レガシーなインフラが混在する日本企業のIT環境において、インターネット上の一般的な情報だけで訓練された公開モデルが正解を導き出せる確率はそう高くありません。
この現象は、単なるコミュニケーションの齟齬にとどまらず、誤った操作によるシステム障害のリスクや、対応にあたるIT部門のリソース浪費という実務的な課題を引き起こしています。
なぜAIの回答は「現場の真実」と乖離するのか
この摩擦の根本には、生成AI特有の「ハルシネーション(もっともらしい嘘)」と「ナレッジ・カットオフ(学習データの期間制限)」という技術的限界があります。
例えば、Windowsのトラブルシューティング一つとっても、企業向けのエディションではセキュリティポリシー(グループポリシー)によって特定の操作が制限されていることが一般的です。しかし、一般的なWeb情報を学習したAIは、家庭用PC向けの解決策(レジストリの変更など、企業環境では御法度の操作)を自信満々に提案します。
ユーザーは「最新のAIが言うのだから正しいはずだ」と信じ込み、それを否定する社内IT担当者を「知識が古い」「対応が悪い」と誤解してしまいます。日本企業においては、長年培われた「現場の暗黙知」や「独自の運用ルール」が業務を支えている側面が強く、これらはパブリックなAIが最も苦手とする領域です。
「シャドーAI」がもたらすガバナンスへの懸念
さらに深刻なのは、従業員が会社の許可を得ていない生成AIツールに、社内のエラーログや構成情報を貼り付けている可能性がある点です。これは「シャドーIT」ならぬ「シャドーAI」の問題です。
業務効率化を焦るあまり、セキュリティリスクを軽視して機密情報を外部のAIに入力してしまう行為は、情報漏洩に直結します。日本企業ではコンプライアンス遵守の意識が高い一方で、現場レベルでの「なんとかしてトラブルを解決したい」という善意が、結果としてガバナンス違反を招く皮肉な状況が生まれています。
単に「AIの使用禁止」を通達するだけでは、隠れて使うユーザーが増えるだけで根本解決にはなりません。重要なのは、AIが「万能な回答者」ではなく、「あくまで補助ツールであり、最終的な判断には専門知識が必要である」という認識を組織全体で共有することです。
社内特化型AI(RAG)への転換とリテラシー教育
この問題に対する現実的な解決策は2つあります。1つは、汎用的なAIではなく、自社の社内ドキュメントやマニュアルを学習・参照させた「RAG(検索拡張生成)」システムの構築です。「ChatGPTに聞く」のではなく、「社内のAIアシスタントに聞く」フローを整備し、参照元が明確な回答を提示させることで、ハルシネーションのリスクを低減できます。
もう1つは、AIリテラシー教育の質の転換です。これまでの「AIで何ができるか」というポジティブな側面の教育に加え、「AIは何が苦手か」「なぜ専門家の判断が必要なのか」という限界点を理解させる教育が不可欠です。特に日本企業では、職務記述書(ジョブディスクリプション)が曖昧なケースが多く、誰が最終的な技術判断の責任を持つかが不明確になりがちです。AI時代だからこそ、人間の専門家の役割と権限を再定義する必要があります。
日本企業のAI活用への示唆
今回の事例から、日本企業が学ぶべき要点は以下の通りです。
1. AIリテラシー教育の再定義
プロンプトエンジニアリングなどの活用技術だけでなく、LLMの仕組み(確率的な単語予測)や限界(ハルシネーション、情報の鮮度)を全社員に教育し、「AIの回答を鵜呑みにしない」批判的思考を養う必要があります。
2. 社内データの整備とRAGの導入
汎用AIへの依存を減らすため、自社の就業規則、IT運用マニュアル、過去のトラブルシューティング事例をデータベース化し、それを参照する安全な社内AI環境を構築することが急務です。これは「シャドーAI」対策としても有効です。
3. 専門家の価値の再評価
AIが一般化するほど、AIが答えられない「コンテキスト(文脈)への理解」や「責任ある判断」を持つ人間の専門家の価値は高まります。IT部門や専門職をコストセンターとして扱うのではなく、AIを監督・補完する重要な役割として位置づけ直すことが求められます。
