ある著名な科学者がChatGPTの設定を変更した結果、2年分の「研究成果」とも言えるチャット履歴を喪失したという事例が海外で話題となりました。この出来事は、生成AIを単なる対話ツールとしてではなく、情報の蓄積場所(ナレッジベース)として依存することの危うさを浮き彫りにしています。日本企業が従業員のAI利用を管理・推進する上で、この事例から何を学ぶべきか、実務的な観点から解説します。
設定一つで積み上げた知見が消える:「データ利用への同意」の落とし穴
海外メディアFuturismが報じたところによると、ある科学者がChatGPTの「データに関する同意(Data Consent)」設定をオフにしたところ、過去2年間にわたって蓄積してきた構造化された学術的な作業データにアクセスできなくなったといいます。彼はこれを「悲劇」と表現し、自身の研究プロセスの一部が失われたことに衝撃を受けました。
OpenAIなどのAIベンダーは、プライバシー保護の観点から「会話履歴をモデルの学習に使わせない」というオプションを提供しています。しかし、消費者向けのサービス設計において、この設定はしばしば「履歴機能の無効化」とセットになっている場合があります(現在は改善傾向にありますが、過去の仕様や特定の条件下では履歴が表示されなくなることがありました)。
この事例における最大の問題は、ユーザーがSaaS(Software as a Service)であるChatGPTのチャット欄を、WordやExcel、あるいはクラウドストレージのような「永続的な保存場所」と誤認していた点にあります。
SaaS利用における「プラットフォーム依存」のリスク
生成AIはあくまで「プロセッサ(処理装置)」であり、「ストレージ(保管装置)」ではありません。しかし、その高い対話能力ゆえに、ユーザーはついついAIとの対話の中に重要なアイデアやドラフト、コード片を残したままにしがちです。
日本国内の企業においても、業務効率化の一環としてChatGPTやCopilotの導入が進んでいますが、以下のリスクを再認識する必要があります。
- 仕様変更のリスク:クラウドサービス側のUI変更やポリシー変更により、過去のデータへのアクセス方法が変わる、あるいは失われる可能性があります。
- アカウント停止のリスク:利用規約(AUP)に意図せず抵触し、アカウントがBAN(停止)された場合、データのエクスポートすらできなくなる恐れがあります。
- データ保持期間の制限:エンタープライズ契約でない場合、データの保持期間や保証レベル(SLA)は商用利用に十分でないケースがあります。
日本企業における「シャドーAI」とデータ管理
日本企業特有の課題として、会社が公式にAIツールを導入していない、あるいは使い勝手の悪い社内ツールしか提供していないために、従業員が個人のアカウントでChatGPTなどを利用する「シャドーAI」の問題があります。
個人アカウントで業務に関する深い考察や構造化されたデータを蓄積している場合、今回のようなデータ消失事故が起きれば、それは個人の損失にとどまらず「企業の知的財産の損失」となります。また、退職時にそのアカウント内のデータが会社に残らないという問題も発生します。
一方で、APIを利用して社内システムに組み込んだり、Azure OpenAI Serviceなどのエンタープライズ環境を利用したりしている場合は、ログやデータを自社の管理下(自社のストレージなど)に保存する設計がしやすく、このようなリスクは低減できます。
日本企業のAI活用への示唆
今回の事例は、単なる操作ミスやバグの話ではなく、AIサービスとの付き合い方に関する教訓を含んでいます。意思決定者や実務担当者は以下の点に留意すべきです。
1. AIは「思考の壁打ち相手」であり「金庫」ではない
従業員に対し、生成AI上でのやり取りは「一時的なワークスペース」であるという認識を徹底させる必要があります。重要な成果物、決定事項、コードなどは、必ず社内のドキュメント管理システムやリポジトリ(Box, Google Drive, GitHubなど)にコピー&ペーストして保存するフローを確立してください。
2. エンタープライズ版の契約とデータオーナーシップの明確化
無料版や個人プラン(Plus)ではなく、企業向けの「ChatGPT Enterprise」や「Teamプラン」、あるいはAPI経由の自社構築環境を推奨します。これらはセキュリティだけでなく、データが学習に使われないことの保証や、管理者がログを監査できる権限において、ガバナンス上必須の機能です。
3. 「オプトアウト」と「機能制限」の関係を理解する
プライバシー保護のために「学習への利用(オプトアウト)」を拒否することは重要ですが、その操作が「履歴機能のオフ」など利便性の低下を招く仕様になっていないか、利用しているツールの最新の挙動を確認する必要があります。特に機密情報を扱う部署では、ポリシー設定が業務効率を阻害しないよう、適切なバランスを見極めることが求められます。
