ある科学者がChatGPT上に保存していた研究データを消失したというニュースは、生成AIを実務で活用するすべての企業にとって重要な警鐘です。大規模言語モデル(LLM)は「演算装置」であり「記憶装置」ではないという原則を再確認し、日本企業が構築すべき堅牢なAIアーキテクチャとガバナンスについて解説します。
ChatGPTは「便利なメモ帳」ではない
最近、海外のニュースで「ChatGPTに保存していた研究データがすべて消えてしまい、科学者が悲鳴を上げている」という事例が報じられました。この出来事は、生成AIの技術的な欠陥というよりも、ユーザー側の「ツールの性質に対する誤解」に起因する普遍的なリスクを浮き彫りにしています。
多くのビジネスパーソンは、ChatGPTのような対話型AIのインターフェースを、過去の作業ログやナレッジを蓄積する「ストレージ(保管場所)」として無意識に扱ってしまいがちです。しかし、クラウドベースのSaaS(Software as a Service)である以上、サービス側の障害、仕様変更、あるいはアカウントの不具合によって、チャット履歴が一瞬でアクセス不能になるリスクは常に存在します。
LLMは「計算機」であり「データベース」ではない
エンジニアリングの観点から見ると、大規模言語モデル(LLM)の本質は、入力されたテキストに対して確率的に尤もらしい回答を生成する「演算エンジン(Processor)」です。情報を永続的に保持・管理する「データベース(Storage)」とは、役割もアーキテクチャも根本的に異なります。
日本国内でプロダクト開発や社内システム構築を進める際、最も重要な設計思想の一つがこの「分離」です。業務で重要なナレッジや顧客データ、意思決定のプロセスは、AIベンダーが提供するチャット履歴の中ではなく、自社が管理する安全なデータベースやドキュメント管理システム内に保存されるべきです。
例えば、最新のAI開発手法である「RAG(検索拡張生成)」は、自社のデータを外部のデータベース(ベクトルDBなど)に保持し、AIには必要な時だけその情報を参照させる仕組みです。これにより、AIモデル自体が切り替わったり、チャット履歴が消えたりしても、企業の資産であるデータは守られます。
日本企業に求められるBCPとガバナンス
日本の商習慣において、業務の継続性(BCP)と説明責任は極めて重要です。もし、重要なプロジェクトの進捗やアイデア出しの履歴がChatGPT上だけに存在し、それが消失した場合、業務が停止するだけでなく、コンプライアンス上の監査証跡(Audit Trail)も失うことになります。
特に、個人情報保護法や秘密保持契約(NDA)の観点からも、パブリックなWebブラウザ版のAIチャットに依存しすぎることはリスクを伴います。企業としては、Azure OpenAI ServiceやAmazon Bedrockのような、セキュリティとSLA(サービス品質保証)が担保されたAPI経由での環境構築を検討するのが本筋です。これにより、ログの保存義務を果たしつつ、万が一のサービスダウン時にも自社側でバックアップを参照できる体制を作ることが可能です。
日本企業のAI活用への示唆
今回の事例を踏まえ、意思決定者や実務担当者が意識すべきポイントを整理します。
- 「フロー」と「ストック」の分離: 生成AIはアイデアを出し、文章を生成する「フロー」の道具として使い、その成果物は即座に自社のファイルサーバーやWikiなどの「ストック」場所へ移す習慣を徹底してください。
- Web版とAPI版の使い分け: 手軽なWeb版(ChatGPT, Claude, Geminiなど)はあくまで個人作業の補助ツールと位置づけ、組織的な業務フローやプロダクトへの組み込みには、ログ管理とデータ保全が可能なAPI版を利用するアーキテクチャを採用すべきです。
- シャドーIT化の防止と教育: 従業員が個人のアカウントで業務データをAIに入力・保存していないか、ガイドラインを策定・周知することが急務です。「履歴は消える可能性がある」という前提を共有するだけでも、リスクは大幅に低減できます。
AIは強力なパートナーですが、情報の最終的な管理者ではありません。ツールの限界と特性を正しく理解し、「データ主権」を自社に留める設計こそが、持続可能なAI活用の鍵となります。
