ロシアのサッカークラブFCソチの監督が、トレーニング計画や移籍交渉の準備、移動の手配にChatGPTを活用していたという報道は、AI活用が「デスクワークの効率化」を超え、高度な専門領域における意思決定支援にまで浸透し始めたことを示唆しています。本記事ではこの事例を端緒に、日本企業が専門業務に生成AIを組み込む際の可能性と、不可避なリスク・ガバナンスの課題について解説します。
「専門家の壁打ち相手」としての生成AI
FCソチのロベルト・モレノ監督がChatGPTをトレーニングセッションの構築や戦術的なアイデア出しに利用していたという事実は、生成AIの役割が単なる「検索」や「要約」から、専門家の思考を拡張するパートナーへとシフトしている好例です。
ビジネスの現場においても、生成AIは人間の専門性を代替するものではなく、専門家が自身の知識や直感を整理し、新たな視点を得るための「壁打ち相手」として機能し始めています。例えば、新規事業の企画立案やマーケティング戦略の策定において、大規模言語モデル(LLM)に対して「もし競合他社がこの戦略をとった場合、どのような対抗策が考えられるか」といったシミュレーションを行わせることは、日本の企業でも徐々に一般的になりつつあります。
しかし、ここで重要なのは、AIが出力する回答の「妥当性」を判断するのはあくまで人間であるという点です。サッカーの監督がAIの提案をそのままピッチに持ち込まないのと同様、ビジネスリーダーもAIの出力を鵜呑みにせず、自社の文脈や現場のリアリティに照らし合わせてフィルタリングする必要があります。
ロジスティクスとバックオフィス業務への浸透
報道によれば、モレノ氏はチームの移動計画(トラベルプランニング)にもChatGPTを利用していたとされています。これは、AIがクリエイティブな領域だけでなく、複雑な変数が絡むロジスティクスやオペレーション業務においても実用段階にあることを示しています。
日本企業においても、出張手配、経費精算の一次チェック、会議日程の調整といった「非競争領域」の業務にAIを導入することは、生産性向上の即効薬となり得ます。特に人手不足が深刻化する日本国内においては、こうした定型業務をAIエージェントに任せることで、人間がより付加価値の高い業務に集中できる環境を整えることが急務です。
機密情報とガバナンスのリスク
一方で、このニュースには見過ごせないリスクも潜んでいます。記事では「移籍(Transfers)」に関する業務にもAIが使われていたことに触れています。プロスポーツにおける移籍情報は極めて機密性の高い情報であり、企業のM&Aや人事情報に相当します。
もし、公共のChatGPT(学習データとして利用される設定のままのアカウント)に、獲得候補選手の詳細な年俸条件や交渉ステータスを入力していたとしたら、これは重大な情報漏洩リスクとなります。日本企業においても、社員が業務効率化を焦るあまり、顧客データや社外秘の技術情報をパブリックな生成AIサービスに入力してしまう「シャドーAI」の問題が顕在化しています。
企業向けの安全な環境(Enterprise版の契約や、自社専用のプライベート環境構築)を提供せず、単に「AI禁止」とするだけでは、現場のイノベーションを阻害します。逆に、無防備な利用はコンプライアンス違反を招きます。このバランスをどう取るかが、経営層とIT部門の腕の見せ所です。
日本企業のAI活用への示唆
今回のスポーツ界の事例は、AI活用が特定の業界に限らず、あらゆる「意思決定」と「業務プロセス」に及ぶことを示しています。日本企業がここから学ぶべき実務的な示唆は以下の3点に集約されます。
- 意思決定の補助ツールとしての受容:AIを「正解を出すマシン」ではなく、「思考の幅を広げるアシスタント」として定義し、現場の専門家(エンジニア、企画職、管理者)に使わせる文化を醸成すること。
- ガバナンスと利便性の両立:「移籍交渉」のような機密情報を扱う業務において、どのツールをどのような設定で使うべきか、明確なガイドラインと安全なインフラ(Azure OpenAI ServiceやAmazon Bedrockなどを活用した閉域環境など)を整備すること。
- 最終責任の所在の明確化:AIが作成したトレーニングメニューや移動計画が失敗した場合、責任はAIではなく監督にあります。同様に、ビジネスにおいてもAIの出力に基づく意思決定の責任は人間が負うことを組織文化として再確認する必要があります。
