生成AIブームの中心人物であるGoogle DeepMindのデミス・ハサビス氏が、Geminiの開発と並行して注力しているのが「AIによる創薬」という難題です。大規模言語モデル(LLM)がビジネスの効率化を変えつつある今、その先にある「科学的発見のためのAI」は、日本の製造業や研究開発部門にどのような示唆を与えるのでしょうか。
「チャットボット」の次は「生命科学の解明」へ
現在、世界のAIトレンドはChatGPTやGeminiといった大規模言語モデル(LLM)一色に見えます。しかし、Google DeepMindを率いるデミス・ハサビス氏が真に見据えているのは、言葉を操るAIのその先にある「物理世界や生物学的な課題を解決するAI」です。その象徴的な取り組みが、AIを活用して新薬開発プロセスを劇的に短縮しようとする「Isomorphic Labs」の活動です。
DeepMindといえば、タンパク質の立体構造を予測する「AlphaFold」で生物学の世界に革命を起こしました。これまで数年かかっていた構造解析をわずか数分に短縮したこの技術は、すでに世界中の研究者に利用されています。ハサビス氏の現在の挑戦は、この技術をさらに応用し、実際の「薬作り」という極めて複雑で、かつビジネスインパクトの巨大な領域において、AIによるブレークスルーを起こすことにあります。
なぜ「創薬」がAIの次の主戦場なのか
LLMはインターネット上の膨大なテキストデータを学習し、確率的に「もっともらしい言葉」を紡ぎ出します。一方で、創薬や材料開発といった科学領域では、物理法則や化学反応といった厳密なルールに従う必要があります。ここでは「ハルシネーション(もっともらしい嘘)」は許されず、極めて高い精度が求められます。
それにもかかわらずDeepMindやNVIDIA、Microsoftなどがこぞってこの領域に投資するのは、成功した際のリターンが計り知れないからです。従来の創薬プロセスは、1つの新薬を出すのに10年以上の歳月と数千億円規模のコストがかかると言われています。AIが候補物質のスクリーニングや毒性予測をシミュレーションレベルで行い、この期間とコストを半分、あるいはそれ以下にできれば、製薬業界のビジネスモデルは根底から覆ります。
これは製薬に留まりません。半導体材料、電池素材、カーボンニュートラルに寄与する新素材など、化学・素材産業においても同様の「マテリアルズ・インフォマティクス(MI)」のアプローチが加速しています。つまり、AI活用は「オフィス業務の自動化」から「コア事業の研究開発(R&D)の高度化」へとフェーズが移行しつつあるのです。
日本企業が直面する「データ」と「組織」の壁
この「AI for Science(科学のためのAI)」の潮流は、本来、高い技術力と良質な実験データを持つ日本の製造業や製薬企業にとって追い風となるはずです。しかし、実務的な観点からはいくつかの課題も浮き彫りになります。
一つは「データの質と構造」の問題です。LLMはWeb上の公開データで学習できますが、創薬や材料開発に必要なデータは各社の実験室に眠っています。しかも、それらは紙の実験ノートや、統一されていないExcelファイル、属人化したフォーマットで散在していることが少なくありません。AIに学習させるための「機械可読なデータ基盤」の整備が、多くの日本企業でボトルネックになっています。
もう一つは「専門性のかけ算」ができる人材の不足です。AIエンジニアと、生物学や化学の専門家(ドメインエキスパート)は、使っている言語や思考プロセスが異なります。ハサビス氏のようなリーダーシップの下、両者が一体となって開発を進める体制を作れるかが、成否を分ける鍵となります。
日本企業のAI活用への示唆
DeepMindの動向とAI創薬の潮流を踏まえ、日本の意思決定者や実務者は以下の3点を意識すべきです。
第一に、「LLM活用」と「ドメイン特化型AI」を分けて考えることです。議事録作成やコード生成といった業務効率化にはLLMが有効ですが、自社の競争力の源泉である製品開発やR&Dには、AlphaFoldのような特化型モデルや、自社の実験データを学習させた独自モデルの構築が必要です。ここへの投資を躊躇すれば、グローバルな開発競争から脱落するリスクがあります。
第二に、自社データの「資産化」を急ぐことです。海外のAIジャイアントであっても、特定の化学物質の実験データや、日本の工場における製造プロセスデータは持っていません。これらは交渉における強力な武器になります。データをAIが学習可能な形式で蓄積・管理する「MLOps(機械学習基盤の運用)」の体制整備は、IT部門だけでなくR&D部門全体の急務です。
第三に、法規制と倫理への対応です。創薬や医療AIは人の命に関わるため、日本でもPMDA(医薬品医療機器総合機構)による規制や、次世代医療基盤法などの法整備が進んでいます。技術的な実現可能性だけでなく、規制当局との対話や、AIの判断根拠を説明可能にする(XAI)技術の導入など、社会実装を見据えたガバナンス体制の構築が不可欠です。
AIは単なる「便利なツール」から、科学的発見を加速させ、産業構造を変革する「エンジン」へと進化しています。この変化を正しく恐れ、かつ果敢に挑戦することが、技術立国・日本の再成長には不可欠です。
