UAEの通信大手e&とIBMが、ガバナンスとコンプライアンス領域における「エージェント型AI」の導入に向けた提携を発表しました。これは生成AIの活用トレンドが、単なる「対話・支援」から「自律的なタスク実行」へとシフトし、かつ実務要件の厳しい管理部門へ適用され始めたことを示唆しています。本記事では、このグローバルな動向を基点に、日本の商習慣や法的背景を踏まえたエージェント型AIの可能性と、導入時に考慮すべきリスクについて解説します。
「対話」から「行動」へ:エージェント型AIの台頭
生成AIブームの初期、多くの企業は「チャットボット」や「要約ツール」としてのLLM(大規模言語モデル)活用に注力していました。しかし、2025年以降のトレンドとして明確になりつつあるのが、「エージェント型AI(Agentic AI)」へのシフトです。
エージェント型AIとは、人間が詳細な指示を逐一与えなくとも、AI自身が目標達成のための計画を立て、ツールを使いこなし、結果を評価して修正を行うシステムを指します。今回のIBMとe&(旧Etisalat Group)の協業は、この技術を通信業界という極めて規制の厳しい領域の「ガバナンスとコンプライアンス」に適用しようとするものです。これは、AIが単なるアシスタント(副操縦士)から、特定の業務を任せられるエージェント(代理人)へと進化していることを象徴しています。
なぜ「ガバナンス」領域なのか
一見、創造性が求められるマーケティング領域などがAIに適していると思われがちですが、実はガバナンスやコンプライアンスこそ、エージェント型AIの真価が発揮される領域です。
グローバル企業におけるコンプライアンス業務は、各国の法規制(GDPRやAI規制法など)の照合、膨大な契約書の監査、社内規定との整合性チェックなど、複雑かつ大量のテキスト処理を伴います。従来、これらは専門家が人海戦術で行ってきましたが、エージェント型AIであれば、複数のデータベースを参照し、「この契約条項は最新のEU規制に抵触する可能性があるため、法務部へエスカレーションする」といった判断とアクションを自律的に行うことが可能になります。
日本企業においても、改正個人情報保護法への対応や、サプライチェーン全体での人権デューデリジェンスなど、ガバナンス業務の負荷は増大する一方です。ここに「疲れを知らない監査役」としてのAIを配置するニーズは極めて高いと言えます。
日本企業における活用と「組織の壁」
日本企業がこの技術を導入する際、最大のハードルとなるのは技術そのものよりも「商習慣と組織文化」です。日本の意思決定プロセスは、稟議制度に代表されるように、合意形成と責任の所在を重視します。
エージェント型AIが自律的に判断を下す場合、「AIの判断ミスを誰がどう責任を取るのか」という点が必ず議論になります。例えば、AIが承認プロセスの一部を自動化した結果、コンプライアンス違反を見落とした場合です。そのため、日本では完全な自動化(Full Autonomy)を目指すのではなく、あくまで「判断材料の整理と一次スクリーニング」をAIに任せ、最終的な承認(Human-in-the-loop)は人間が行うという設計が、現実的な解となるでしょう。
一方で、属人化しやすい「ベテラン社員の暗黙知」によるガバナンス運用を、AIエージェントに形式知化させることは、人材不足に悩む日本企業にとって大きなメリットとなります。
リスクと限界:ブラックボックス化とコスト
エージェント型AIには特有のリスクもあります。AIが自律的にタスクを繰り返す中で、意図しないループに陥ったり、誤った前提に基づいて誤ったアクションを連鎖させたりするリスクです。ガバナンス領域でのミスは企業の信用問題に直結するため、AIの思考プロセス(推論の連鎖)をログとして残し、後から監査可能(Auditability)にすることが不可欠です。
また、エージェント型AIは推論を繰り返すため、単純なチャットボットに比べてAPIコストや計算リソースの消費が激しくなる傾向があります。費用対効果を見極めるシビアな目が求められます。
日本企業のAI活用への示唆
今回のIBMとe&の事例は、AI活用が「お遊び」のフェーズを終え、企業の根幹である管理部門にまで及び始めたことを示しています。日本企業の実務担当者は以下の点に留意すべきです。
- 「守りのDX」への投資:生成AIを新規事業だけでなく、法務・コンプライアンス・監査といった「守り」の領域の効率化・高度化に活用する視点を持つこと。
- プロセス重視の設計:AIに単に答えを出させるのではなく、「どの規定に基づき、どう判断したか」というプロセスを可視化させる要件定義を行うこと。これにより、日本の組織文化でも受け入れやすい「説明可能なAI」となる。
- データ整備の優先:エージェントが正しく働くためには、社内規定や過去の監査ログが構造化されている必要があります。AI導入以前に、ドキュメントのデジタル化と整理が不可欠です。
AIエージェントは、正しく指揮すれば強力な味方となります。技術の進化を冷静に見極め、自社のガバナンス強化につなげる戦略的な意思決定が求められています。
