英国で発生した生成AI「Grok」によるディープフェイク被害と、それに対する政府の対応の遅れが議論を呼んでいます。この事例は、技術の進化スピードに対して法規制が追いつかない現状を浮き彫りにしました。本記事では、このグローバルな事象を他山の石とし、日本企業が備えるべきAIガバナンスとリスクマネジメントについて解説します。
技術の進化と「法規制の空白」
BBCの報道によれば、英国のプレゼンターJess Davies氏は、イーロン・マスク氏率いるxAI社の生成AI「Grok」によって作成された自身のディープフェイク画像に対し、英国政府の法整備が遅すぎると批判しています。この事例は、特定の企業やサービスの不備というよりも、生成AI技術の指数関数的な進化に対し、立法や規制のプロセスがいかに追いついていないかという、世界共通の構造的な課題を示唆しています。
Grokは、他の商用画像生成AIと比較して表現の制約(ガードレール)が緩やかであるとされ、それがユーザーによる悪意あるコンテンツ生成を容易にした側面があります。しかし、オープンソースモデルの普及も含め、誰でも高度な画像生成が可能になった現在、技術的な制限だけで防ぐことには限界があります。
日本企業にとってのリスク:CEO詐欺とブランド毀損
「ディープフェイクは著名人の問題」と捉えるのは危険です。日本企業にとっても、これは明日は我が身の重大な経営リスクとなり得ます。
第一に、セキュリティリスクです。経営層の声や動画を模倣したディープフェイクを用いた「CEO詐欺(ビジネスメール詐欺のAI版)」は、海外ですでに巨額の被害を出しています。日本企業の決裁フローや組織文化を熟知した攻撃者が、AIを用いて担当者を騙すソーシャルエンジニアリング攻撃は、今後増加が予想されます。
第二に、レピュテーションリスクです。自社の商品が不適切な文脈でAI生成画像に使われたり、社員が関与しているかのような偽動画が拡散されたりした場合、真偽の確認と事態の収拾に追われている間に、SNS上で炎上しブランドイメージが毀損される可能性があります。
日本の法規制と「ソフトロー」アプローチ
欧州連合(EU)が包括的な「AI法(EU AI Act)」で厳格な規制を敷く一方、日本は現時点ではガイドラインベースの「ソフトロー(法的拘束力のない規範)」を中心としたアプローチをとっています。これはイノベーションを阻害しないという点ではメリットですが、裏を返せば「各企業の自主的なガバナンス」に責任が委ねられていることを意味します。
また、日本国内では、コンテンツの真正性を証明するための技術標準「C2PA」や、日本発の技術である「オリジネーター・プロファイル(OP)」の実装に向けた動きが活発化しています。これらは、AIで作られたものか否かを判別しやすくするための技術ですが、普及にはまだ時間がかかります。現段階では、法や技術が完全に守ってくれることを期待するのではなく、自衛策を講じる必要があります。
日本企業のAI活用への示唆
英国での事例と日本の現状を踏まえ、企業の実務担当者が意識すべきポイントは以下の通りです。
- 受動的防御から能動的ガバナンスへ:法規制を待つのではなく、自社独自の「AI倫理規定」や「利用ガイドライン」を策定し、従業員への教育を徹底することが急務です。これには、生成AIを業務で使う際のリスクだけでなく、自社が被害者になった際の対応フローも含めるべきです。
- 多層的な本人確認プロセスの導入:特に財務や機密情報を扱う業務においては、ビデオ通話や音声だけの指示を過信せず、多要素認証やコールバック(折り返し確認)といったアナログな確認手段を併用する「ゼロトラスト」な運用手順を確立する必要があります。
- 広報・法務との連携強化:ディープフェイクによるデマが拡散した際、即座に「それは偽物である」と公式声明を出せる体制(クライシスコミュニケーション)を準備しておくことが、被害を最小限に抑える鍵となります。
- 技術動向の継続的なモニタリング:AIモデルの進化は速く、昨日安全だった対策が今日は通用しないこともあります。MLOps(機械学習基盤の運用)の観点からも、自社で利用するAIモデルの安全性評価を定期的に行う体制が必要です。
AIは業務効率化や新規事業創出に不可欠なツールですが、同時に「信頼」を揺るがすリスクも孕んでいます。英国の事例を対岸の火事とせず、足元のガバナンスを見直す契機とすべきでしょう。
