米国にて、AIが生成した偽のテキストメッセージが証拠として採用され、誤って実刑判決が下されるという衝撃的な事例が報告されました。ディープフェイク技術の脅威は画像や動画にとどまらず、日常的なテキストコミュニケーションにまで及んでいます。本稿では、この事例を端緒に、日本企業が直面する「デジタル証拠の真正性」という新たなリスクと、求められるガバナンス・実務対応について解説します。
「検証なき証拠採用」が招いた冤罪リスク
米国フィラデルフィアで、AIによって捏造されたテキストメッセージが法廷で証拠として採用され、ある女性が不当に投獄されるという事件が発生しました。報道によれば、女性の元交際相手がAIを用いて偽のテキスト対話ログを作成し、それを警察や裁判所に提出したとされています。最大の問題は、その証拠がAIによって生成されたものである可能性について、十分な技術的検証が行われないまま法的手続きが進んでしまった点にあります。
これまで「ディープフェイク」といえば、有名人の顔を合成した動画や、本物そっくりの音声データが主な懸念材料でした。しかし、この事例は、生成AI(Generative AI)による「もっともらしいテキストの捏造」が、司法制度や企業の意思決定プロセスを揺るがす深刻なリスクであることを示しています。
日本企業における「テキスト捏造」の現実的脅威
この問題は、対岸の火事ではありません。日本のビジネス現場においても、チャットツール(Slack、Teams、LINE WORKSなど)やメールがコミュニケーションの中心となっています。もし、従業員間のトラブルやハラスメント調査、あるいは取引先との言った言わないの紛争において、生成AIで作成された「偽の会話ログ」が提出された場合、現在の社内調査フローでそれを見抜くことは可能でしょうか。
従来のスクリーンショット(画面キャプチャ)による証拠提出は、生成AIの普及以前から改ざんのリスクがありましたが、AIの登場により、文脈や本人の口調まで模倣した「違和感のない捏造」が容易になりました。技術的な知識がない人物でも、わずかな時間で精巧な偽造証拠を作成できるようになったことが、リスクの次元を変えています。
「スクリーンショット文化」からの脱却とデジタル・フォレンジック
日本企業、特に法務や人事労務の現場では、依然として紙に印刷されたメールや、チャット画面のスクリーンショットを証拠として扱う慣習が根強く残っています。しかし、AI時代においてこれらはもはや「信頼できる原本」とは言えません。
企業防衛の観点からは、スクリーンショットではなく、サーバーに残された「ログデータ(アクセスログやメッセージログ)」を正とする運用ルールへの転換が急務です。これには、改ざん検知機能を持つ監査ログの保存や、必要に応じて専門家によるデジタル・フォレンジック(電磁的記録の解析調査)を実施できる体制の整備が含まれます。
一方で、すべての事案で高度な解析を行うことはコスト的に不可能です。そのため、重要度に応じたリスク評価と、「真正性をどのように担保するか」という社内規定のアップデートが求められます。
日本企業のAI活用への示唆
今回の米国の事例は、AIの進化が「信用のコスト」を増大させる側面があることを浮き彫りにしました。日本企業が取るべき実務的なアクションは以下の通りです。
1. エビデンス確認プロセスの厳格化
社内調査や監査において、提出された画像データやテキストコピーを鵜呑みにせず、必ずシステム上の元データ(Raw Data)と突き合わせるプロセスを標準化してください。特に懲戒処分や契約解除など、重大な決定を行う際は必須となります。
2. 「性悪説」に基づいたログ管理
「ログは改ざんされ得る」という前提に立ち、操作ログの長期保存設定や、特権ID管理者による不正操作を防ぐための監視体制(AIガバナンスの一部)を強化する必要があります。SaaS選定時においても、監査ログ機能の充実度を評価基準に加えるべきです。
3. 従業員リテラシー教育の更新
AIによる捏造が技術的に容易であることを全従業員に周知し、安易な偽造行為が犯罪や重篤なコンプライアンス違反になることを教育する必要があります。同時に、自分自身がAI捏造の被害者になった場合の相談窓口や対処法も整備しておくことが、組織の健全性を保つ鍵となります。
