東南アジアの大手金融機関であるホンリョン銀行(Hong Leong Bank)が、Google Cloudの生成AIモデル「Gemini Flash」を採用し、デジタルバンキングと従業員体験の変革に着手しました。金融業界という規制の厳しい領域で、なぜ最上位の巨大モデルではなく「Flash(軽量・高速)」モデルが選ばれたのか。その背景にある実利的な判断と、日本企業が取り入れるべきAI実装の視点を解説します。
金融セクターが「実験」から「実益」へ踏み出すとき
生成AIのブームが一巡し、多くの企業がPoC(概念実証)から本番運用への移行に課題を抱える中、マレーシアに本拠を置くホンリョン銀行(Hong Leong Bank)の事例は、実務的なAI活用のひとつの解を示しています。同行はGoogle Cloudの「Gemini Flash」シリーズを採用し、デジタルバンキング体験の向上と、行内業務の効率化(従業員体験:EX)の両輪で変革を進めています。
特筆すべきは、同行が採用したのが「Flash」と名付けられたモデルである点です。これは一般的に、推論速度が速く、運用コストが低い「軽量モデル」や「蒸留モデル」のカテゴリーに属します。最高精度の巨大モデルを無条件に選ぶのではなく、応答速度(レイテンシ)とコストパフォーマンスを重視した選定は、AI活用が「魔法の杖」への期待から「実用的なツール」への落とし込みへとシフトしていることを象徴しています。
なぜ「軽量・高速モデル」が選ばれるのか
銀行業務、特に対顧客サービス(デジタルバンキング)においては、回答の正確性はもちろんのこと、ユーザーを待たせない「即応性」が極めて重要です。また、トランザクション数が膨大になる金融アプリにおいて、トークン(文字数)あたりのコストが高い巨大モデルを使用し続けることは、経営上の大きなリスクとなり得ます。
「Flash」のようなモデルは、複雑な推論能力では最上位モデルに譲るものの、要約、定型的な応答、情報の抽出といった特定タスクにおいては十分な性能を発揮し、かつ圧倒的に高速で安価です。日本企業においても、「とにかく高性能なAIを」という思考停止から脱却し、ユースケースに応じた「適材適所」のモデル選定(Model Selection)ができるかどうかが、ROI(投資対効果)を左右する鍵となります。
CX(顧客体験)とEX(従業員体験)の同時変革
本事例では、顧客向けサービスの改善だけでなく、従業員向けの体験向上にもAIが活用されています。これは日本の金融機関や大企業にとっても重要な視点です。
顧客向け(CX)では、パーソナライズされた金融アドバイスや、複雑な商品情報のわかりやすい解説などが想定されます。一方、従業員向け(EX)では、膨大なコンプライアンス文書の検索、稟議書の作成支援、あるいはレガシーシステムのコード解析支援などが挙げられます。
特に日本では少子高齢化による労働力不足が深刻であり、AIによるEX向上は「働き方改革」の実効性を高める手段として期待されます。行員が事務作業から解放され、より付加価値の高い顧客対応(日本独自の強みである『おもてなし』の領域)に注力できる環境を作ることは、競争力維持に不可欠です。
リスク管理とハルシネーション対策
金融機関でのAI活用において、避けて通れないのが「ハルシネーション(もっともらしい嘘)」のリスクです。誤った金利や架空の金融商品を案内することは許されません。
そのため、LLM(大規模言語モデル)単体で知識を問うのではなく、RAG(検索拡張生成)という技術を用い、銀行内部の正確なデータベースを参照させて回答を生成する仕組みが必須となります。また、Google Cloudのようなエンタープライズグレードの基盤を採用することは、データの秘匿性やセキュリティ、および各国の金融規制(データレジデンシーなど)に準拠する上でも合理的な判断と言えます。
日本企業のAI活用への示唆
ホンリョン銀行の事例を踏まえ、日本のビジネスリーダーやエンジニアは以下の点を意識してプロジェクトを進めるべきです。
1. 「最高性能」より「最適性能」を選ぶ
すべてのタスクに最高スペックのAIモデルは不要です。チャットボットや社内検索など、用途に応じて「軽量・高速・安価」なモデルを使い分けるアーキテクチャ設計が、持続可能なAI運用の前提となります。
2. 従業員体験(EX)からの着手を恐れない
ハルシネーションのリスクが高い対顧客サービス(CX)へのAI導入に二の足を踏む場合は、まずは社内向け(EX)から導入し、ナレッジを蓄積することが推奨されます。社内ドキュメントの検索や要約であれば、万が一の誤りも人間がチェック可能であり、リスクをコントロールしながら組織のAIリテラシーを高めることができます。
3. ガバナンスと「人間参加型」のプロセス
日本の厳格な法規制や商習慣に対応するためには、AI任せにせず、重要な意思決定には必ず人間が介在する「Human-in-the-loop」の設計が不可欠です。AIはあくまで支援ツールであり、最終責任は人間が負うというガバナンス体制を明確にすることで、現場は安心してAIを活用できるようになります。
