フィリピン証券取引委員会がCoinbaseやGeminiといった主要な暗号資産取引所のブロックに動いたというニュースは、単なる金融業界の出来事ではありません。国境を越えて提供されるデジタルサービスに対する「国家の主権」と「コンプライアンス」の要求が、かつてないほど高まっていることを示唆しています。本記事では、この事例を他山の石とし、日本企業が生成AIやLLMを活用する際に意識すべき「地政学リスク」と「ガバナンス」について解説します。
「Gemini」違いが示唆する、デジタルサービスへの規制包囲網
先日、フィリピンの規制当局がCoinbaseおよびGeminiを含む未ライセンスの暗号資産取引所へのアクセスを遮断するという報道がなされました。まず実務家として冷静に事実を整理する必要がありますが、ここで言及されている「Gemini」は、Googleが提供するマルチモーダルAI「Gemini」ではなく、ウィンクルボス兄弟が設立した暗号資産取引所を指します。
しかし、これを「AIとは無関係なニュース」として切り捨てるのは早計です。この事例は、グローバルに展開するデジタルサービスであっても、現地のライセンスや法規制を遵守しなければ、ある日突然サービスが停止される(キルスイッチが押される)リスクがあることを如実に示しています。これは、OpenAIのChatGPTやGoogleのGemini、AnthropicのClaudeなど、海外製の基盤モデル(Foundation Models)に依存してビジネスを構築している日本企業にとっても、極めて重要な教訓を含んでいます。
「デジタル主権」の確立とAI規制の動向
暗号資産と同様に、AIもまた「国境を持たない技術」です。しかし、各国政府は現在、データの保護、著作権、倫理的な安全性を理由に、AIに対する管理権限(デジタル主権)を強化しようとしています。
例えば、EUの「AI法(EU AI Act)」は世界で最も厳格な規制の一つであり、違反企業には巨額の制裁金を科す姿勢を見せています。また、米国でも大統領令によるAI開発の監視が強化されています。フィリピン当局が「ライセンスを持たない海外サービス」を排除したように、将来的には「各国のAI規制(データセットの開示やローカルデータの扱いなど)に準拠しないAIモデル」が、特定の国で利用禁止になるシナリオも、リスク管理上、想定しておく必要があります。
日本企業が直面する「ソフトロー」と「ハードロー」のギャップ
現在、日本国内のAI規制は、経済産業省や総務省によるガイドラインを中心とした「ソフトロー(法的拘束力のない指針)」のアプローチが主流です。これはイノベーションを阻害しないための配慮であり、日本は世界的に見てもAI開発・活用に寛容な「AIパラダイス」とも呼ばれる環境にあります。
しかし、ここに落とし穴があります。日本企業が国内向けにサービスを作る場合でも、その裏側で動いているLLMが海外製である限り、そのモデル自体は開発国(主に米国)の規制や、サービス提供企業のグローバル・ポリシー(利用規約)の影響を強く受けます。また、日本企業が開発したAIサービスを海外展開する場合、現地の厳格な規制(ハードロー)に抵触すれば、今回のフィリピンの事例のように即座にブロックされるリスクがあります。
実務的な対策:モデルの多様化とMLOpsの高度化
では、エンジニアやプロダクトマネージャーはどう動くべきでしょうか。最大の防御策は「特定の海外ベンダーへの過度な依存(ベンダーロックイン)を避ける」ことです。
技術的な観点からは、LLMを切り替え可能なアーキテクチャにしておくことが推奨されます。LangChainなどのフレームワークを活用し、OpenAIのAPIが利用できなくなった場合や、ポリシー変更で利用料が高騰した場合に、Azure OpenAI、Google Vertex AI、あるいは国産のLLM(NTTやソフトバンク、サイバーエージェントなどが開発するもの)や、自社環境でホスト可能なオープンソースモデル(Llama 3等)にスイッチできる体制を整えること。これが、これからのMLOps(機械学習基盤の運用)における重要な要件となります。
日本企業のAI活用への示唆
今回の暗号資産規制のニュースをAIの文脈で読み解くと、以下の3つの示唆が得られます。
- 用語の確認と事実の精査:ニュースの見出しにある「Gemini」などのキーワードだけで判断せず、それがAIサービスなのか別業界の話なのかを正確に把握するリテラシーが、情報の錯綜する現代では不可欠です。
- BCP(事業継続計画)としてのAIガバナンス:「海外製の便利なAI」は、規制や地政学的な理由で突如使えなくなる可能性があります。代替モデルの選定や、プロンプトの互換性検証を平時から行っておくことがリスクヘッジになります。
- 国内ルールの遵守だけでは不十分:日本の著作権法やAIガイドラインは開発者に有利ですが、グローバルスタンダード(特にEUや米国の動向)を無視しては、持続可能なプロダクト開発はできません。コンプライアンス部門と連携し、国際的な規制動向をウォッチし続ける必要があります。
