生成AIの技術検証(PoC)を行う企業は増えていますが、本番運用への移行には高いハードルが存在します。Shirin Khosravi Jam氏による「本番環境でRAGとAIエージェントを1年間運用した経験に基づくロードマップ」という投稿を起点に、デモ作成と実運用のギャップを埋めるために必要なエンジニアリングの要諦と、日本企業が意識すべき組織的・技術的課題について解説します。
「動くもの」を作るのは簡単だが、「使えるもの」は難しい
生成AI、特に大規模言語モデル(LLM)を活用したアプリケーション開発において、初期のプロトタイプ(デモ)を作成することは、現在では非常に容易になりました。しかし、元記事の著者が強調するように、「本番環境での運用(Production)」は1週間のハッカソンで作れるようなものではなく、長期的なエンジニアリングの積み重ねが必要です。
多くの日本企業でも、「チャットボットを作ってみたが、回答精度が安定しない」「ハルシネーション(もっともらしい嘘)が怖くて顧客に出せない」といった理由でPoC(概念実証)止まりになるケースが散見されます。本番運用に耐えうるシステムを構築するためには、単にLLMを呼び出すだけでなく、周辺の「足回り」を固めるロードマップが不可欠です。
実務的なRAG(検索拡張生成)構築の勘所
企業独自データをAIに参照させるRAG(Retrieval-Augmented Generation)は、日本の実務において最も需要が高い技術の一つです。しかし、本番レベルのRAGには以下の高度な処理が求められます。
まず、「データの前処理」です。日本のオフィスには、図表が入り組んだPDFや、複雑なフォーマットのExcel、PowerPointが大量に眠っています。これらをLLMが理解しやすいテキスト形式に変換し、意味のまとまりごとに適切に分割(チャンキング)する工程は、精度向上のための泥臭いながらも決定的な要素となります。
次に、「検索(Retrieval)の最適化」です。単なるキーワード検索や単純なベクトル検索だけでは、ユーザーの意図したドキュメントがヒットしないことが多々あります。キーワード検索とベクトル検索を組み合わせるハイブリッド検索や、検索結果をLLMが再評価して並べ替えるリランク(Re-ranking)などの技術を導入し、回答の根拠となる情報の質を高める必要があります。
AIエージェント:自律的なタスク実行への挑戦
単に質問に答えるだけでなく、APIを叩いてデータを取得したり、ワークフローを実行したりする「AIエージェント」への期待も高まっています。しかし、エージェント機能はRAG以上に複雑性が増します。
エージェントが適切に動くためには、AIが「どのツール(機能)を使うべきか」を正確に判断する推論能力と、エラーが発生した際に自律的に修正を試みるループ処理の設計が必要です。本番環境では、エージェントが予期せぬ挙動をして無限ループに陥ったり、誤った操作を行ったりしないよう、厳密なガードレール(安全策)の実装が求められます。
評価(Evaluation)なくして改善なし
本番運用を目指すロードマップにおいて、最も見落とされがちなのが「評価(Evaluation)」の仕組みです。回答の精度、関連性、有害性の有無などを、人手による確認だけでなく、別のLLMを用いて自動評価する仕組み(LLM-as-a-Judge)などを導入し、定量的にモニタリングする必要があります。
「なんとなく良さそう」ではなく、「先週のアップデートで精度が5%向上した」と言える状態を作ることが、継続的な改善(MLOps/LLMOps)の第一歩です。
日本企業のAI活用への示唆
以上のグローバルな技術トレンドと実務者の経験を踏まえ、日本企業がAI活用を進める上で意識すべきポイントを整理します。
1. 「100%の精度」神話からの脱却とリスク許容
日本の商習慣では品質への要求が極めて高いですが、現時点のLLMで100%の精度を保証することは不可能です。完全に自律させるのではなく、「Human-in-the-loop(人が介在するプロセス)」を設計に組み込み、AIの下書きを人間が確認・承認するワークフローを前提とすることが、実用化への近道です。
2. 泥臭い「データ整備」への投資
高性能なAIモデルを導入すれば魔法のように解決するわけではありません。特にRAGにおいては「ゴミを入れればゴミが出る(Garbage In, Garbage Out)」の原則が適用されます。紙文書のデジタル化や、社内ドキュメントの構造化など、地味なデータガバナンスへの取り組みが、AI活用の成否を分けます。
3. PoCから「運用」への意識転換
「何ができるか試す」フェーズから、「ビジネス価値を生み出し続ける」フェーズへ移行するには、開発チームだけでなく、法務・セキュリティ部門を早期に巻き込んだガバナンス体制の構築と、運用コスト(トークン課金やインフラ費用)のシビアな見積もりが不可欠です。
